とか何々と称するに到るものかも知れない。
 中には俺《お》れは狐だとは思っていないのに狐の部に入れられて内心困っている者もないとはいえないだろう。
 要するに画家が絵画に対する本当の心の動きは、それは本能の動きであり、何の理由もなく、ただ次から次へと、貪《むさぼ》るが如く新らしいものが描きたいというに過ぎない。強い制作力ある画家ほど、飽きやすく、貪慾《どんよく》にして我儘《わがまま》である。
 古人はよく九星とかいうものによって人の性格を定めて見る事をする。私はよく知らないが、九紫《きゅうし》はどんな性格であり五黄《ごおう》の寅歳《とらどし》の男女は如何に意地強きかといったりする。その星の強さというものに似たものを、私は画家の性格のうちに見る。本当の自個をよく生かす画家の星の強さは他の凡百の弱き画家の上に作用して皆|悉《ことごと》く自分と同じ真似《まね》をさせてしまう。自分の流感を他人の全部へ感染させるが如きものであり、感染するものこそ弱き星の性格者であり自ら好んで感染してしまうのである。
 性慾の本能が常に同じものを嫌い、常に新らしきものを要求し、それを得てまた更に更新してその終る処を知らず、遂《つい》に死を賭《と》するに至るといった調子と画家の心とは殆《ほと》んど同じ形をとっている。
 誰れが何んといっても、何が何んであろうとも、流派が何で、シュールがどうなってもいい。常に自分の慾情が猛烈でさえあればそれが万事であり、その星の強さが、世界を征服するといった具合になるのだと私は思っている。そしてそれが画家の本音でもあると考える。さて最後に鋭き表現力だ。
 殊に近代の画家は、先生のいわゆる師風を継承する必要もなく、狩野元信《かのうもとのぶ》の元の一字を頂戴《ちょうだい》する必要もない。師風である処の印象派を今日廃業したといって直ちに破門をされる心配もない。もし破門されれば速かに出て行けばそれでいい。
 主人ゆずりの娘を頂戴したくなければ嫌だといって差支《さしつか》えない時代である。他の世界はどうか知らないが絵画の世界ではそうである。万事が許されているのだ。芸術の世界には絶対の自由が許されているはずだ。
 従って、一度この国に住めば終生絵画の足は洗えない。カンヴァスの上だけの自由は普通人の夢にも与えられていない天地なのである。
 であるのに、人間は、永久に縛られていた
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