おける陰影は必ず太陽のある位置がわかるところのこの世の影である。もちろん西洋でもうんと古代の初期絵画になると一種の隈で現実世界の光線とは無関係になっていることがあるが、相当絵画が進歩してからのものは非常にいよいよ太陽光線によって現れたところのこの世界のあらゆる光線の強弱階段を描いている。印象派などは極端に太陽光線ばかりを描いたようだが、ともかく影とひなたは油絵の母体であり相貌といっていい。だから日本画の技術のみを習得した画家には絶対に油絵は早速試みることは出来ないが、洋画家はちょっと道楽に日本画の墨画を試みてもまずいながらも成功する例が沢山ある。それは自分達人種の伝統にからみついているところのお里へちょっと帰りさえすれば出来る仕事であるのだ。西洋人は素人でも子供でもが何か絵を描こうとする時必ず影とひなたから描いて行く、そして絵の心得なきものでも容易に遠近と立体とを表現することが出来る。
西洋の神様や幽霊の絵は足だけは宙に浮かび上がっているが、やはり太陽の光を浴びているところの確実なる地上の存在となって立っている。幽霊でさえもまず半透明体位のところで、やはり光線を浴びてまごついている。中世紀の宗教画やバーンジョーンズの神様の絵など見ると神様達はちょうど靴か下駄の如く何か変な形のものを足へ履いて、そこから焔が立ち昇っていて、この世の太陽光線によって光と反射と影を伴うて立っている。だから私はややもすると神様とは信じられないで宝塚の少女歌劇を見ている心が起きてくる場合がある。フットライトに照し出された、芝居の神様を思い浮かべることがある。かの壷坂霊験記を見ると、観音様がなんといっても人間のことだから、完全に日本画の如く線と、平面と、半透明体とになり切れないものだから、やむなくきらきらする衣裳を電燈に輝かせつつ光と影を持ったまま岩と雲の間に立ち現れ、われこそは観音也とのたまう。もし役者が完全に透明となる薬でもあれば、彼らは直ちに服用して線となり透明体と化してしまうであろう。
で私などはどうも陰影ある竜とか観音、神様などをば習慣的に好まなくなっている。ただあらましの線だけ与えてくれれば当方で勝手な観音や神様を呼んで、勝手にありがたがってみたりすることに慣れている。
日本のエロチックな浮世絵の裸体とか足にしてもがもちろん影がないので、その線条の赴くところにしたがって観音は自
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