》ったのだ、私はこれはあまりだと思って、二、三度強く足踏みをして見たが、何の反応もなかった、とうとう、十貫目と相場が定《きま》ってフラフラと下宿へ帰った事があった、それ以来なるべく計量器には乗らぬように心がけている。

 胃のサボタージュのひどい時にはしばしば脳貧血を起すものだ、脳貧血はところ嫌わず起るものだから厄介《やっかい》だ、私はこの脳貧血のために今までに二度|行路病者《こうろびょうしゃ》となって行き倒れたことがある。一度は東京の目白《めじろ》のある田舎道で夜の八時過ぎだった、急にフラフラとやって来て暗い草叢《くさむら》の中へ倒れた、その時は或る気前のいい車屋さんに助けられたものだった、その時の話は以前|広津《ひろつ》氏が何かへ書いたことがあるからそれは省略するとして、今一つは奈良公園での出来事だった。
 私は朝から胃の重たさを感じながら荒池の近くで写生していた、例によって昼めしなど思い出しもしなかったのだ、その日は私の一番いやなうす曇りのジメジメとした寒い日だった、午後三時ごろであったか、七ツ道具を片づけて或る坂をば登りつめたと思うころ急に天地が大地震の如くグラグラと廻転し始め心臓は昂進《こうしん》を始めた。これはいけないと思う間もなく私は七ツ道具を投げすてて草原の上へ倒れてしまったのだ。ところで私はちょっと空を眺めて見た、この世の空かあるいは最早《もはや》冥土《めいど》の空かを確めるために。すると、頭の上には大きな馴染《なじみ》の杉の木が見えたからまだ死んではいない事だけはわかった。
 誰かいないかと思って周囲を眺めると半|丁《ちょう》ばかりの先きに道路を修繕している人夫《にんぷ》がいたのでともかく「私は今死にかかっています、早く来て下さい」と二度叫んで見た、するとその男たちはちょっとこちらを眺めたがまた道路を掘出すのであった、私は随分他人というものは水臭いものだ、死ぬといえば何はさて置き飛んで来てもいいはずのものだと思ってイライラした、私はもう一度「早く来てくれ、私は死ぬ」と叫んだ、勿論さような大声が出るからには、すぐ死にそうには見えなかったことだろうと思う。
 人夫の監督が何か指図《さしず》するとすぐ二人の男が駆けてくれた、そして私は助けられて、宿である処の江戸三の座敷へ運ばれた、同宿の日本画家M君は私の冷え切った手足を夜通し自分の手で温めてくれた、私はその親切を一生忘れ得ない。
 以来私は絵の道具を担《かつ》いで坂路を登ることを大変|厭《いや》がるようになった、坂路を見ると目がくらむ心地が今もなおするのである。
 私は一人で風景写生に出ることを好まなくなったのはどうもその時以来らしい、画家の健康と、モティフとの関係は随分密接であると思う。大きなトワルを持って幾里の道を往復するという仕事は私にとっては先ず絶望の事に属するのである、従って私は静物と人物を主として描きたがる、これはモティフが向うから私の画室へ毎朝訪れてくれるから都合がいい、多少腹が痛くても仕事は出来るが風景は向うから電車に乗っては来てくれない、風景画家には健康と、マメマメしい事が随分必要である事と思う。

 それから間もなく、やはり胃のふくれている或日の事、私は活動写真を見に入った、すると蛙の心臓へアルコールを灌《そそ》ぐ実写が写し出されたのであった、蛙の心臓が大写しになるのだ、ピクリピクリと動いている、ああ動いているなと思う瞬間、アルコールの一滴がその心臓へ灌がれたのだ、すると、そのピクリピクリの活動が、とても猛烈を極《きわ》めて来たのだ、おやおやと思うと同時に私の心臓は蛙と同じ昂進を始めて来た、私の眼はグラグラと廻り出した、驚いて私は館から飛び出した事があった。
 ともかく私は私の厄介の腑のために随分人に知れない、余分の苦労をつづけている次第であると思う。

   蜘蛛

 むしがすかぬという言葉がある。何もそんなに厭《いや》がる必要のないものでもどうもむしがすかぬとなると堪《たま》らなく厭になるもので、またむしがすくと、変なものにでも妙に愛着を覚えるものだ。
 恋愛などでもそうだ、男は必ず日本一の美人に恋するとは限らない、よそから見ると、何んだ、あんなもの、どこがいいのかと思うがその当事者にとってはとてもなかなか大したもので、おお谷間の姫百合よ、野の花よあなたなしに一日もとか、全く変な讃辞を封筒へ収めて書き送っているから全くむしは厄介《やっかい》だ、たべものなどもむしが大《おおい》に関係するし、美術家の喧嘩《けんか》などは大抵この虫から起るようである。
 さてまたこのむしが、本物の虫を嫌うことがある。誰れにでもよくあることだ、私は百足《むかで》が厭だとか蛇が大嫌いとか、なめくじが嫌だとか毛むしあるいはいもむし、といろいろある、これも、よく考えて
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