ないのだ。
 早がきばかりでない、近頃は早がきの上にモティフを見ないで作画をする乱暴な風習も随分増加して来た。これはかなり困った風習だと思う。一寸見は大変面白そうなものでも少し眺めていると、ガタガタに下落して見える絵は主にこの種類のものに多いのだ。それも非写実的な構成的なものならともかくもかなり写実を目的としてある絵でありながらモティフを見ないで作画することは、まったく写実と夫婦になったようなもので決して子供は生まれないであろう。
 私はフランスにいる時に随分、これはまた無数に存在する早がきの絵を見て飽き飽きしていた時、ふと坂本繁二郎氏の画室を訪ねて氏の絵を見せてもらって、私はこの人の絵の気合いにすっかり同感してしまったことを覚えている。今年は珍しく坂本氏が十数点程出されているので私は会場のたまらない空気に煩わされた時々に、氏の絵を眺めに行って気分を直した位である、まったく坂本氏のようなたちの絵は目下の日本にはぜひ必要だと思うのである。
 予選の後、本鑑査の時でもむろん通るべき作品は別として、一番われわれが苦しむのは、何としても形だけはあるが気合いが出かけて出ないヤヤコシイ作品である。
 要するにうんと気合いのあるところを見せてもらえばいいと思う。本当の気合いは軽率な修練ではとうてい駄目だ、何事も修業だ修業だと私は思うのだ、そして私達も修業であるのだ。
[#地から1字上げ](「みづゑ」大正十四年十月)

   真似

 落語家が役者の声色を真似ますが、真似ることそのものがその芸当の目的でありますから、その声色なり様子なりが、真物らしく出来た時にはその芸術の目的は達せられたわけです。
 真似はいつまで経っても真似であって、真物ではありません。真物になっては面白くありません。
 上手な声色を聞いていると、まったくその舞台の光景を思い出してぼんやりとしてしまいます。そしてそれに似させてくれている落語家が大変有難い人のように思われて来ます。その労を謝したい気になります。ついにはその落語家が好きになってしまいます。
 私はよくこんなに真物らしくやれるものならいっそのこと役者になってしまえばどうかと、考えることがありますが、しかしこれは似させるという技術が面白いのであって、真物にうっかり転職してくれては大変です。蓄音機はやはり機械であることが有難いのです。蓄音機が呂昇になりきっ
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