そのつもりをして色の調子を計る必要がある、偶然の効果がまた面白い結果になるのである。
グワッシュの他には私はいつも例のガラス絵を試みるのであるが、これはガラスの透明から来る心地のよい感じが、例えば定食のあとのアイスクリーム位の価値を自分に与えるもので、一週間ばかりの油絵製作のあとにはちょっとこれをやってみたくなるものである。しかしながら毎日ガラス絵を連続して描くことはまた閉口だ、めしの代用を氷水でやっているようでこれはまたたまらない。
ガラス絵もやはり偶然の効果を利用することの多い仕事である。すなわちガラスの一方から描いて裏へ絵が現れるのであるから、そこに思いがけない味が出るのである、その味を味わうのがすなわち毎日の食事に飽きた場合の慰めだと考える。
要するに油絵というものは下地から仕上げにいたるまでああでもない、こうでもないと散々苦労を重ねて終点へまでこぎつけるので、楽しみよりもくるしみが多く、しかも力尽きて降参するという順序になりやすいものであるが、技法のうちに偶然を含む種類のものは、作者に賭博の楽しみを与えるもので失敗も多いが思いがけない儲けもあるものである。[#地から1字上げ](「みづゑ」大正十四年六月)
触覚の世界とその芸術
なかなかむずかしい理論で、多少黒田重太郎君風の表題ではあるが、内容はすこぶる平易なものであるからさほど心配する必要はない。
実は近頃私はちょっとした結膜炎をやって片目を四、五日間休ませていたのだが、目というものはやはり二つないと不便なもので唯一個の目玉では世界万物すべて平面に見えて決して浮き出さない。すなわち立体感がなくなるのだ。立体がわからないからしたがって距離がわからない、片目で絵を描いてみたがトワール迄の距離がはっきりしないので筆の先がトワールへ届き過ぎたり届かなかったりする、まことに頼りないものである。これで両眼から公休を要求でもされた日にはまったく心細いと思った。それで私は触覚のことを考えた。一体目のない動物は触覚だけで生きて行くものだが、人間も盲目になると触覚が異様に発達するものだそうだ。
めくらに限らずめあきでも目を瞑ってみると、触覚の世界というものがかなりはっきり考えられるものだ。また触覚を味わったり楽しんだりする時には目は隠居をすることが多い。あるいはまた目で眺めて触覚を強める場合もある。電車の
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