力でも親の力においてさえも、この横わりたるこの心は、動いてはくれないのだ。従ってこの問題を解こうなどという柔順な気もちには決してなれないのだった。
その上、私はまた小さな時分から、いろいろな雑念に悩まされる人間であった。雑念といってもいろいろとあるが、一例を挙げると、今は田舎にのみ残っている処の、祭礼に引き出す地車というものがあった。この囃子《はやし》が私は大好きだった。鉦と太鼓でチキチン、コンコン、といった調子が連続するのだ。それから芦辺《あしべ》踊りとか都踊りの囃子も大好きだった。ずらりと並んだ舞子たちが、キラキラと光った鉦を揃《そろ》えてたたくのだ、チャンチキチン、コンコン、というのだ。これが馬鹿に華やかで気に入って、心の底へ浸《し》み込んでしまったのであった。
私はこの、チャンチキチンのために、ますます算術が馬鹿々々しくなって来るのであった。
大工あり、日に何時間と読むうちに、何んだつまらないと思うと同時に、チャンチキチンの囃子が猛烈に始まるのだった。こうなると問題も試験もくそもなく、ただ私はチャンチキチン、なのだ。
先生はさように賑《にぎ》やかな囃子が、私の心に始まっているとは知らないから、無遠慮にも次の問題を小出《こいで》と言って、しばしば難題を吹きかけるのであった。その瞬間、芦辺踊りもちょっと鳴りやむのであるが、出来ませんといってこの災難を追払うと同時に、またもやチャンチキチンだ。
この地車や踊りの囃子はとうとう私の親父の臨終にまでも襲来したのには、フとわれながら厭な気がした。親父の臨終において、チャンチキチンなど考えているべきはずではないではないかと私は私の囃子|方《かた》へ、ちょっと注意をしてやった。しかし、私は人間の心というものは、かかる大変に押詰った場合において、なお幾分の空地があるという事が、かえって甚《はなは》だ悲しく思われた。
先ずそんな事で、私はとうとう算術を断念してしまった。一切やらぬ事と定《き》めた。その代り多少とも他の学科へ力を入れる事にして、図画で百点を取る事にきめた。要するに平均点で進級するという方法なのだ。これは案外成功だった。やっとの思いで、美術学校へ入学した時、私は初めて算術から解放された。私の死ぬまで算術がないんだなと思った時、私の嫌いな、世界中の蜘蛛《くも》が一時に自殺してくれたような心地がした。もう私の
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