増した新春
私の生れた家は古めかしく、暗く、戸や柱は黒光りの光沢があった。神棚が店の間に二つ、仲の間に大きいのが一つ、庭に二つ、薬屋だったからその製造場に一つ、前栽《せんざい》に稲荷《いなり》様が一つ、仏間に仏壇が一つ、合計すると相当の数に上った。
その神様の種類からいえば、先ず店の間の天照皇太神宮《てんしょうこうたいじんぐう》を初めとし、不動明王《ふどうみょうおう》、戸隠《とがくし》神社、天満宮《てんまんぐう》、戎《えびす》、大黒《だいこく》、金比羅《こんぴら》、三宝荒神《さんぼうこうじん》、神農《しんのう》様、弁財天、布袋《ほてい》、稲荷様等、八百万《やおよろず》の神々たちが存在された。朝夕に燈明と、水と、小豆《あずき》と、洗米《あらいごめ》を供えてまわるのが私の役目とされていた。だから今でも私は燧石《ひうちいし》から火を得る術《すべ》は心得ている。
神様の中には金箔の塗られた大小幾つかの怪しげな形のものまで交っていた。私はそっと取り出して達磨《だるま》の如くころがして、起上るのを楽しんで叱《しか》られたこともあった。
朝と晩とには、父はこの神棚を必ず拝んで廻るのだが、それが相当の時間を費《ついや》した。われわれ子供らは空腹と飯の香に興奮している時、父はゆるゆると長い経文《きょうもん》を唱えているのである。先ず店の間から順番に流し初めて最後が仏壇であった。仏間のお経の長さは格別だった。うんと省略してもらっても二十分はかかった。その間私たちや母は食膳《しょくぜん》を見つめている訳だった。
それが正月であると、子供時代のは長く待たれた新春であるが故に、元旦は暗い四時というに私は興奮して目を醒《さま》してしまう。そして暗く静かなそのころの堺筋《さかいすじ》へ出て夜半と元朝《がんちょう》の心《ここ》ちよく冷たい静寂の空気を味わうのであった。ところがなかなか父が起きて来ない。ゆっくりと起きて、そしてあの神様を拝んでいては夜が明けてしまうではないかと思って、私は一人やきもきして、大人の神経の鈍さを嘆いて見たことであった。
漸《ようや》くにして長い元旦の経文は常の三倍位はあるのだが終りを告げると、父は「さあ祝います」というと、丁稚《でっち》、番頭、女中、悉《ことごと》くが集まってくる。すると「元日やきのうの鬼が礼に来るか、よういうたあるなあ」と父は感心するのだ。これは毎年|定《きま》って父の感心するレディメードなのだ。元旦は相変りませずということがいいそうだから、多分父も相変らず一度いったことを毎年継続しているのかも知れない。
腹の中が雑煮《ぞうに》で満たされた時分、障子の細目が明るくなって、電燈が消えるのだ。私は洋服をきせてもらって、紅白のまんじゅうをもらいに、学校へ行く。二十四孝の描かれた屏風《びょうぶ》、松竹梅、赤い毛氈《もうせん》、親類の改まった顔等、皆正月を正月らしくする画因であった。
この現代でも、まだこれ以上複雑な正月を続けている家もあることと思う。さて私の今の生活では一つの神棚もない。面倒くさくはないが何の情景もない。屋外は常の如く松林である。昔の祝膳《いわいぜん》だけはそれでも並べて見るが、畳敷の洋館へ出た朱塗りの膳は、警察の小使部屋《こづかいべや》の正月を思わせる。屏風も立てず、松竹梅もない。勿論《もちろん》廻礼もしない。用事がないから朝も十時まで寝込んでいる。甚だ簡単だ。それだけ近ごろの新春は軽便に来て軽便に去って行く。行ったかと思う間もなくまた訪れる。どうも年々にスピードを増すようだ。
大久保作次郎君の印象
十幾年前、私の母が在世の頃、大久保君がよく遊びに来ました。あとで母は「どうや大久保はんはいつもすっきりとして、まるでお殿様やなァ」といっていつも感嘆しました。ついでに「お前もちと見習いなはれ」と申しました。母でさえ感服するばかりの温厚なる色男だったのです。
月日が経った上に、西洋の寂莫と芸術で苦労したものか、最近はその顔に不思議な妖味を現して来ました。ことに目の位置がだんだん上へ上へとせり上がってしまって、目の下何寸といって鯛なら値うちものとなりつつあります。
君の性格は母のいう如く殿様であり君子です。君子は危きに近よらずとか申しますが、危きに内心ひそかに近よりたがる君子で、危いところには何があるかもよく御存じの君子のような気もします。とにかくものわかりのよい、親切丁寧、女性に対してものやさしきいい君子かも知れません。
[#地から1字上げ](「美術新論」昭和五年四月)
大切な雰囲気
巴里《パリ》の街頭で焼いも屋をしていたというボアイエーの絵を、近頃ある私の知人の許《もと》に十幾枚秘蔵されているのを見る事が出来た。それは童心的で、そして技巧がないようではあるがそれが
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