。大洋と濃緑《こみどり》の山と草木の重々しき重なりの連続であり、殊《こと》に九里峡《くりきょう》と瀞八丁《どろはっちょう》の両岸に生《お》い茂る草木こそは、なるほど人間と恋愛するかも知れないところの柳が今なお多く存在しているらしく、秋成《あきなり》の物語りは本当にあった事件の一つにちがいないと思わせた。
私が瀞八丁を尋ねた時は梅雨中のある猛烈な風雨の日だった。一丈あまりの出水でプロペラー船が出ないかも知れないとさえいわれた。従って瀞らしい風景は見られなかったが、とても濃緑の世界と陰鬱と物凄《ものすご》い水の力を眺めることが出来た。というと私も大変強そうだが内心もう船が出なければ幸いだろうと考えて見たりした。ところが、あるお蔭《かげ》をもって、船が出るというのだ。猛雨と激流と深い山々と岩壁と雲の去来の中を走る船は竜宮《りゅうぐう》行きの乗合《のりあい》の如く、全くあたりの草木の奇《く》しき形相と水だらけの世界は私に海底の心を起さしめた。ある旗亭《きてい》でめしを食いつつ見おろした。嵐の瀞の光景は白い波と泥だらけの八丁だった。
中学時代に、私はこの十津川《とつがわ》の九里峡を艪《ろ》による船で下ったことがあった。それは晴れた八月だった。途中で夕立に会ったり、船で弁当をたべたり、話したり写生したりしつつゆるゆると下ったことを覚えている。今はプロペラーの音響によって妻に話しかけても知らぬ顔をしている。妻が何かいっても私には聞えない。友人も口を動かしているらしいがその意思は一切通じない。いい景色だということさえもお互に語り合うことの出来ない二、三時間は、昔の五、六時間の下り船よりも私に歯痒《はがゆ》さと退屈を感ぜしめた。
しかしながら、この不精者をここまで引ずって来て自然の妖気に触れしめたことは即ちデイゼルでありプロペラーでもある訳だ。その代り妖気も神様ももうそろそろ引越しの用意に御多忙のことであろうと思う。
舞台の顔見物
高座へ上がる落語家、講談師、新内語りの名人達の顔を見るに、多くは老年であり何か油で煮つめたような、あるいは揉み潰したような、奇怪にして異様な有様を呈しているものが多いようである。しかし決してその奇怪さや異様さが、悪人とかうす気味悪いものであるとは思えない。奇怪ながらも渋味ゆたかに掬す[#「掬す」は底本では「掬う」]べきものがあり、その芸とともに渾然として心の隅から好感が湧き上がってくる。
あまり若い好男子を高座に見ると、かえって例えば若い男のある何物かを発見した如き、なまいやらしさを感じさせられ、彼が何を上手に喋ったところで皆不愉快の種となってしまうこともある。
何事によらず一代の名人巨匠となると女子供にはちょっと了解致し難い人間のぬしとなり切ってしまい、狐でいえば金毛九尾となって、狐の中の超正一位のぬしとなる。
上野の森を大観という画人が大ぜいの部下に護られて歩いていると、それは絵描きのぬしとも見えたりすることがある。
名優の素顔も、手にとってじっと眺めてみたら、きっとがっかりする位の奇怪さを備えたものだろうと思う。ありあまりたる鼻の高さや頤の長さ等、写真のクローズアップの如く顔全体異状だらけだと思う。その位の大げさな異状を舞台へかけて遠望すれば、ちょうどはっきりとまとまったところの強き美しさにまで縮むものである。そしてその不思議な構成の強さによって心の動きもはっきりと放散出来る次第だ。
だから座敷で見ての好男子を舞台へ立たせたら縮まってしまって、何もかも見えないところのいじけたる存在となってしまうだろう。
文楽座の人形の顔を座敷で手にとって見ると、案外小さいものである。野球のボールの二、三倍位のものだろう。ところがその顔の造作が素晴らしく大げさにいかめしく出来上がっているところへ、はなはだ大まかなその使い方によって、あの人形が広い舞台一杯にのさばり出して大きな印象をわれわれに与える。
ちょうど油絵の仕組みと同じく、常に遠く眺めてよき効果あることを考えつつ作って行くのに似ている。近くで見てちょうどよろしき仕上げでは壁面へ収まって[#「収まって」は底本では「収まってしまう」]から、色も調子も飛んでしまって存在が弱い。
元来日本の油絵は奥行きと調子がなく、味わいはあるがうすっぺらで展覧会場で引き立たず、色ざめてしまい小細工となっていじけがちであることは、日本人が常に畳の上で色紙を描き炬燵によって美人の顔ばかりを鑑賞していた遺風によるものであるかも知れない。総じて西洋ふうの芸術は舞台的だといっていいと思う。
相当の役者にして、どうもも一つ素晴らしく大成しないものがある。私はそれらの顔に、すなわち持って生まれた素顔の構成上、致命的な鼻の低さ小ささ等を発見して、気の毒に思うことがある。しか
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