に際し石井|鶴三《つるぞう》氏のものが大変よく見えたのは、彫刻家であるだけ、デッサンの正確さによって立体感までが現れてよき意味の写実によって絵が生きた事などが原因しているといっていいと私は思う。

 しかしながらまた、よほど以前の浮世絵師の手になる挿絵に私は全く感心する。人物の姿態のうまさ、実感でない処の形の正確さ、そして殊に感服するのは手や足のうまさである。昔の浮世絵師の随分つまらない画家の描いた絵草紙類においても、その画家の充分の努力を私は味《あじわ》い得るのである。そしてかなりの修業を積んでいると見えて、その形に無理がなく、そして最もむつかしい処の手足が最もうまく描きこなされている事である。
 手足のうまさの現れを私は昔の春画において最も味い得るものと思う。あれだけの構図と姿態と手足を描くにはちょっとした器用や間に合せの才能位いでは出来ないと思う。かなりの修業が積まれている。
 挿絵のみならず、油絵や日本画の大作を拝見する時、その手足を見ると、その画家の技量と修業の深浅を知る事が出来るとさえ私は思っている。かく雑然と書いていると長くなるので擱筆《かくひつ》する。
[#地から1字上げ](「アトリエ」昭和四年三月)

   二科会随想

 今年の二科は会場の都合であるいは関西における開会を断念せねばならぬかと思ったところ、幸いにして都合よく大阪で開くことを得るにいたったことは喜ばしい次第である。さて今年の二科ではとくに近代性、時代の尖端的、あるいは野獣的傾向を持つ作品等がかなり賑やかな世評を作ったことであった。
 また左様な作品が相当多く集まったことも事実である。しかしながらわれわれ幕の内から覗いているものにとっては、それら近代性や尖端的なものは二科としては今さらのものではなく、今年とくに力こぶを入れてみたわけでもなかったと思う。偶然世の中全般から集まった絵にそれらの傾向を多分に持ったものが多かったまでである。
 まったく最近の世相は行進曲の、テンポの、スピードの、ジャズの、脚線美の、メカニズムの、野獣的にまで進んだために、勢い一般の左様な傾向に即した絵画を多少増加したかも知れない。またしかし私は世間そのものが、何かかようなものに対して食慾を感じ、それらの傾向あるものに対して同性愛を感じ出したのではあるまいかと思う。
 要するに、左様な絵がよくわかるようにまで世間
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