は六甲の連山をかすめる。このクリームの毒素は私にも影響する。何かこうじっとしていては罰が当たりそうで、といって一体何をどうすればよいか見当がつかない、といった心もちだ。春過ぎた奴でさえこれだ。今春の最中にいて、この乳色のどろどろの珈琲を飲み込んでは、まったく若き男女は一体どうするのか、私もまた同情に堪えない。
四季を通じて女性はこの世に存在するが、春はまったくこの毒素にあたったものが毒にあたったものを眺めるのだから、気狂いが気狂いを見るのと同じく、まったく女の優劣も美麗も判然と区別する能力を失い勝ちだ。ただ春のそして若き女性からは燦爛たる白光が立ち上り、ただわれわれの眼はぐらぐらとくらむだけである。まったく男達が春における女性を見ると眼はただ二個の無力なレンズであるに過ぎない。
だからわれわれの若き時代の恋愛の手紙の一節を思い出してみるがいい。おお紅薔薇の君よ、谷間の白百合よ、私の女神よ救って下さいと嘆願したりしている。ちっともそれが百合らしくも薔薇でもないのに。
だが、そう見えるところにこの[#「この」は底本にはなし]春の毒素の面白さがあるのだ。まったくもって、恥しいことを春には口走るが、それは幸福なたわごととしてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである。
ある写生地の山桜の下で一人の女流画家が、春だわ、春だわ、青春だわ、と叫んで乳色の毒にあたってふらふらしていたのを見たことがあった。今でも春になるとその叫び声とその時の悪寒を思い出す。
とにかく山、河、草木、池、都会、ごみ溜、ビルディングの窓という窓をことごとくこのクリームが包んでしまうと、男の眼はガラスと変じ、若き女性からは悩ましき白光が立ち上る。
舞台では春の踊りやレヴューの足の観兵式である。白光と毒素は充満する。霞を失いつつあるわれわれも、年に一度は開耶姫の珈琲を遠慮なく飲んでおきましょう。
大阪弁雑談
京阪《けいはん》地方位い特殊な言葉を使っている部分も珍らしいと思う。それも文明の中心地帯でありながら、日本の国語とは全く違った話を日常続けているのである。私はいつか、西洋人に対してさえ恥かしい思《おもい》をした事があった。その西洋人は日本の国語と、そのアクセントを丁寧に習得した人であったから、美しい東京弁なのである。そして私の言葉は少し困った大阪弁なのであった。
大阪地方は言葉そのものも随分違ってはいるが、一番違っているのは言葉の抑揚である。それは東京弁の全く正反対のアクセントを持つ事が多い。上るべき処が下り、下るべき処が上っている。
たとえば「何が」という「な」は東京では上るが大阪は上らない。「くも」のくの音を上げると東京では蜘蛛《くも》となり、大阪では「雲」となる。
大阪の蜘蛛は「く」の字が低く「も」が高く発音されるのである。これは一例に過ぎないがその他無数に反対である。
それで大阪で発祥した処の浄るりを東京人が語ると、本当の浄るりとは聞えない。さわりの部分はまだいいとして言葉に至っては全く変なものに化けている事が多い。浄るりの標準語は何といっても大阪弁である。
従って、大阪人は浄るりさえ語らしておけば一番立派な人に見える。
よほど以前、私は道頓堀《どうとんぼり》で大阪の若い役者によって演じられた三人吉三《さんにんきちざ》を見た事があった。その芸は熱心だったが、せりふの嫌《いや》らしさが今に忘れ得ない。大阪ぼんちが泥棒ごっこをして遊んでいるようだった。見ている間は寒気《さむけ》を感じつづけた。
東京で私は忠臣蔵の茶屋場を見た。役者は全部東京弁で演じていた。従ってその一力《いちりき》楼は、京都でなく両国の川べりであるらしい気がした。しかしそんな事が芝居としては問題にもならず、何かさらさらとして意気な忠臣蔵だと思えただけであった。一力楼は本籍を東京へ移してしまった訳である。
大阪役者が三人吉三をやる時にも、一層の事、本籍を大阪へ移してからやればいいと思う。
もしも、大阪弁を使う弁天小僧や直侍《なおざむらい》が現れたら、随分面白い事だろうと思う。その極《きわ》めて歯切れの悪い、深刻でネチネチとした、粘着力のある気前《きま》えのよくない、慾張りで、しみたれた泥棒が三人生れたりするかも知れない。それならまたそれで一つの存在として見ていられるかと思う。
先ず芝居や歌とかいうものは、言葉の違いからかえって地方色が出て、甚だ面白いというものであるが、日本の現代に生れたわれわれが、日常に使う言葉はあまり地方色の濃厚な事は昔と違って不便であり、あまり喜ばれないのである。
標準語が定められ、読本《とくほん》があり、作文がある今日、相当教養あるものが、何かのあいさつや講演をするのに持って生れた大阪弁をそのまま
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