《う》せる事であろうかを考えて見た。
しかし、さように私は速度と動くものに興味を持つけれども、悲しい事に、私はこの世に速度というものが加わらなかった頗《すこぶ》る静かな日本の末端に生れ出たものである。動く興味の最初の教育がやっと球ころがしと汽車であった。すると現代の子供は生れると直ぐプロペラーの音を聞き得る訳である。浄瑠璃《じょうるり》が何故に面白いのか、新内《しんない》がなぜ情死させる力があるのか、さっぱりわからない事になりつつあるかも知れない。
私などは、生れるとすぐ浄瑠璃の声を聴いた。それであるのに二、三年も浄瑠璃に御無沙汰《ごぶさた》をして、不意にそれを聴いて見ると、それが大変不思議な世界と思えてならない事がある。なぜむやみにしつこく笑うのか、なぜそんな訳から娘を殺すのか、政岡《まさおか》はなぜ幕を徒《いた》ずらになが引かせるのかなど思う事さえある。だが今乗って来た円タクと油絵の事も忘れてしまってじっと心を静めて見ると、二、三十年以前の私の心がそろそろ蘇生《そせい》して来て、父母在世当時の私の生活や静かな日本を思い出し何んとなく哀調に誘《さそわ》れてしまうのである。漸《ようや》くしみじみとなって席を出ると直ちにお向いのダンスホールとジャズの速度である。
ダンスといえば、私はその様々の効能を説かれて実は二、三度教えを受けて見た事があるが、私の心はジャズと共に明るくは決してなり得なかった。私の本心が踊ってくれないのであった。私の食道の中には先祖代々親ゆずりの長煙管《ながぎせる》が魚の骨の如くつかえているのを私は感じとうとう踊りの稽古《けいこ》は辞退した。如何に動くものに興味を持つとはいいながらも私はあらゆるテンポが静まり返っていた私の故郷の日本もまた忘れ得ないのである。時々われわれがどうかすると東洋回顧をして見たくなるのもあまり動いているとくたびれるので時に飲み込んでいた祖先の煙管を取り出してちょっと一服がして見たくなるのではないかとさえ思われる。しかしながら私たちの次にはきせる[#「きせる」に傍点]とは一体何にかと訊《き》く少年が現われているらしい気がするのである。
閑談一年
一月、新年の遊客、三々五々押し寄せる日多し。石炭をストーヴへつぎ込むことはこの月の仕事である。石炭代が多少気にかかるけれども、まあいいだろうという気になる。籠居してモデルを描く。
二月、画室の前の空地の枯草の下をほじくると、若草の頭がすでに用意されているのに驚く。
三月、まだうすら寒い陽光である。でも近くの池の底に沈んでいる空缶や茶碗の破片の間に赤腹がのろく動いているのを眺める。心のぬくみ少しづつ[#「づつ」は「ずつ」の誤記か]動くを覚える。
四月、そわそわうそうそと血の動揺を感じる。何かじっとしてはいられないといって何をしていいのかわからないという苦悶を感じ、ただもやもやと暮す日多し。
五月、光と空気と、青葉と温度が身に適し何となく爽快を感じる。少しずつ神経の安定を覚え、何か大いに風景写生でもやってみたく思う。
六月、天気が続く、本当に何かしたいと思っていると梅雨の季節に入る。雨を眺めて何となく悩み多くなる。美人を美しと見る日多し。
七月、この月の前半、雨なお多く、雷も鳴る。私は夕立ちを好む。
ところで何故か毎年、この頃より生活上の夏枯れの節に入る。何か売り払ってみたくなる。結局なるべく外出を見合わせ、蚊に食べられたところをかくことをもって楽しみとなす。
八月、毎年の行事である研究所主催の講習会が一日から始まる。朝寝は禁物、九時から午後三時までの労働である。家へ帰ってもなお心の底へ木炭とパンの屑とが溜っている如く感じる。このこと二週間続くのである。そのへとへとのままにして二科へ出す絵を整理し発送するのである。一年間の収穫の貧弱さに気を悪くしているところへ出品画の批評を持ち込まれるのである。
九月、連続せるへとへとのわが身を上野の美術館において見出す。無数の出品画の山である、わけのわからぬ競争と苦の世界の鳥瞰である。絵画の過食と胃に停滞せるパン屑とが混合して中毒作用を起こすのと、陽気が秋に入って身内に変化をおよぼすのと、心身の疲労が重なり例年鑑査の中程から必ず下痢を催すのである。懐炉を腹にあてて残暑の炎天を上野へ急ぐ辛さは深い。
その弱り目において、自分の絵を明る過ぎる壁面に曝して見るのである。心萎びてしまう。招待日に紋付など着用して会場に立つ勇気さらに出でず。逃ぐるが如く帰阪して残る半月を胃腸の手当てで暮す。こおろぎ鳴く。
十月、初秋の自然は風景写生によろし、されど二科会大阪開会とある。相当出勤の義務あり。トランクより冬帽、スエーター[#「スエーター」は底本では「セーター」]、オーバー等を取り出す。ナフタ
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