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酒がのめない話
ある初夏の頃だった、私は誘われて戸山ヶ原へ出た。一人の友人はポケットにコップを用意し、も一人はビールを携げていた。五月の陽光は原っぱの隅々から私たちの懐中から、シャツの中まで満ちてしまい、ある温《ぬ》くさがわけのわからぬ悩ましさを感ぜしめ、のどを渇かさしめ、だるく疲らしてくれた。そこでわれわれは何か素晴らしいものが欲しいようなさもしいような感情を抱きつつ草むらの匂いを吸いながら寝ころんで青空を眺めたものだった。
友人はビールをうまそうに飲みはじめた。私は実は一滴の酒も飲めないのだ。アルコールは私の心臓にとっては猫いらずであった。でも私はあらゆる酒の味を他の何物よりも好むのだからまったく私は難儀な境遇にあるといっていい。私はのどを渇かしつつ羨ましくそれらを眺めていたものだから、友人は、まあビールのことだ、一杯位はいいだろうといって私のためにコップを捧げてくれたので、あまりの羨ましさに、ついがぶがぶと飲んでしまったものだ。まったくそんなことは、かつてしたことはなかったが、するとやがて猫いらずは私の頭と顔と血脈とを真赤に染め出し、私の心臓を急行列車のピストンの如く急がせてしまったのであるが、わずか一杯のビールで苦しむのはさも男らしくないようだから、つとめて平静な顔をして雲を眺めていたところ、その急速なピストンが逆にすこぶる緩漫になったと思うと、急に五月の天地が地獄の暗黒と変じて来た。私はこれがわがなつかしき地球の見おさめかと感じた。
友人は私の足を持って私を逆さにぶら下げたり仁丹を口へ押し込んだりした。二、三分の間私は草葉のかげへ横たわってから目が醒めた。まさかビールがこんなことになるとは友人も私も思いがけなかったことだった。その友人の一人はこの間死んだ帝展の遠山五郎君だが、私達が十幾年ぶりでパリで出会った時、彼もまたそのことを記憶していて思い出話をしたことである。そのかなり頑健そうであった彼がすこぶるたよりない私よりさきへ死んで行くとは思えなかった。
私は左様に酒がのめないのだが、しかし、酒がのめたらどれ位この世の幸福が多いことかと思い羨んでいる。もちろん、のめないが故にどれだけの幸いがあるのか、それはよくわからないけれども多分それは細君がうるさがらないことであり、修身学的には結構なことでもあり、他人に迷惑を及ぼさないことでもあろ
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