の裸体は見ていられない。裸体は西洋人に限るそうだ。なるほど整頓していることは西洋人に限るかも知れないが、整頓しているものが必ずいい味を持っているとは限らない。不整頓な街景が整頓した街よりも絵になることがある。私などは日本婦人の味を西洋人の味よりも深いと思うことさえある。
 おかしいことには、その美術通でさえも、丸くて小さい代表的日本婦人とともに仲よく散歩しているのであるからやはり何かひそかに、味は感じているのかも知れない。
 ところで人はみな日本一、世界一を考えているのでまず無事なのだ。もし芸術を作らない普通の人が、何に限らず食べたがる普通人が、あらゆる女に対してそれ相当の興味を感じ出したり、手当たり次第に食慾を感じたりしてくれては無数の色魔が現れて危険だ。
 まず何とかかとかいいながらも、あり合わせたところのものを自然から恵まれ、身分相応の恋愛をするにいたり、そしてそれが日本一に見えてくる仕掛けになっているらしいところでちょうど安全である。
 ところで世には悪食家というものがあって、まず普通人間が食うべからざるものでも食ってみたりして喜ぶ道楽者がある。最近に聞いた話によると、ある人は蝿の頭を集めて食べてみたという。そして[#「そして」は底本では「そしして」]下痢を起こした。まずいろいろと食べてみたがこんなまずいものはなかったということだ。
 悪食家というものは、食慾界の色魔ではないかと思う。われわれ画家は美に対しては多少の色魔となっているかも知れない。ちょっと食えないものでも食っている。そして貧乏に苦しみながら一代を好色に費やしてなお足りないという次第となっている。
 だがしかし芸術上の食慾は猫を殺したり、蝿の頭を集めたり、女を食べてしまったり、要するに、左様な殺生や、他人を不幸に陥れたりは決してしないつもりである。本当の仏性とはこのことかと自ら考えるくらいあらゆるものを敬い過ぎるようである。悪食家でさえも自分の責任は自分で背負って立って行くものだ。例えば下痢をするとか、あるいは中毒して死んでしまうとか。
 すると何といっても好色という悪食家が一番いけないことになる。色魔というものは自分の責任を負わないからいけない。責任を全うする色魔というものがあったとしたら、それは決して色魔ではない。

 私の知っているある名誉職という老人にして女中専門という悪食家があったが、
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