してなかった。今の時代では誰れしもが、影は紫であるなど考えるものがなくなったからいいが、全く私は、その頃情けなく思った事である。しかし私はその紫色が癪《しゃく》にも障《さわ》ったので、見えもしない物の影を紫になど頼まれても描いてやるものかという気になってしまった。
だから、その頃の古ぼけた私の習作を今出して見ると全く驚くべく真黒な色で塗られている。
セザンヌやゴーグの感染時代には、素描の確実な画家や林檎《りんご》を林檎と見せる画家は、殆《ほと》んどこの世から一時姿を消さねばならなかった。消えてなくなれと皆もいうし、本人も全く第一、絵でめしさえ食って行ければ、先ず何んとぼろくそに叱《しか》られても、多少の楽しみはあって、生きては行かれるけれども、食えない弱味があるからには、全く消えてなくなるより他に道がなさそうに思えてくるのである。相当のよい素質の画家が、その頃やむをえず死んでしまったであろうかも知れないと私はひそかに考えている。
あるいは童心と無邪気と稚拙とによって描く事がいい事だと、誰れかが、あるいは電報通信社からか、通知があったりすると、相当永い年月を技巧の習練や調子のお稽古《けいこ》できたえ上げた腕前をば、その日からさっぱりと引下げに取りかかったりする傾向もないとはいえない。またそんな時代に一人上等の腕前を発揮していたりすると、何か、よほど汚なきものの存在ででもあるかの如くぼろくそに叱られつづけたりなどする事もあるので、多少気の強い画家であっても、全くそのうちには気が悪くなって行くらしいのである。
折角花道から、苦労しながら仁木《にき》弾正《だんじょう》がせり上って見ても、毎日毎日大根|引下《ひきさが》れ、と叫ばれて見ては、あまりいい気はしないだろう。
あるいは実在を穴のあくほど見つめて描く事でなくては画家でないというと、折角昨日まで鼻唄まじりで陽気なタブローを作り上げていた才人までが、急に一個の林檎を眺めて、涙を流して見たりする事もある。
あるいは、今や時代は野獣である、何がなじっと落着いていては画家に非ずと勇気づけられたりすると、何が何だかよくはわからないながらも、虎は何処《どこ》だと叫びながら、尻をまくって取敢《とりあ》えず飛び出して見たりする。
君々、虎は後ろですよと注意されて喫驚《びっくり》して見たりする事もないとはいえない。あるいはじ
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