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 この間、私が見た芝居では、天王寺屋兵助という盲目の男が五十両の金|故《ゆえ》に妻を奪われ、自分は殺され、まだその他にも人死にの惨事が出来上《できあがっ》たようだった。全く人間の生命も金に見積るとセッターや、セファード、テリヤよりも案外安値なものである。
 絵描き貧乏と金言にもある通り、その一生といってもこれは主として私の一生の事だが、それを金に換算すると随分安い方に属していると思う。
 酒は飲めず、遊蕩《ゆうとう》の志は備わっているが体力微弱である私は、先ず幸福に対する費用といえば、すこぶる僅少《きんしょう》で足りる訳である。たとえば散歩の時カフェー代と多少のタクシと活動写真観覧費とレストウランと定食代位のものかと考える。職業柄の材料費というものは案外素人の考えるほどにはかからぬものである。
 またさように資本をこの方面につぎ込んで見た処で、その多量な生産を誰れが待っているという訳のものでは更にない。徒《いたず》らに押入れの狭さを感じるわけである。
 先ず一年のうちに四、五枚の点数がそろえば秋の二科へ出すだけの事である。そして仲間うちの者たちのために、いいとか悪いとか、いわれてしまえば用は足る都合になっている。ほめられたからといって、どう生活がよくなる訳でもなく、悪口されたといって失職するものでもない。
 やがて秋の季節が終りを告げる時、額縁代と運送費を支払えば一年の行事は終る。先ずこれ位の事が辛うじて順調に繰返し得るものは幸福だという事になっている。
 宗右衛門町のあるお茶屋では、一ケ月千円以上の支払あるお客への勘定書《かんじょうがき》には旦那《だんな》の頭へ御の一字をつけ足して何某御旦那様と書く事になっている。その御旦那様の遊興費にくらべても画家の生涯はばかばかしくも安値である。
 一台の機関車、一台の電車、一台のバスキャデラク、飛行機を見てさえも、これは俺《おれ》の一生よりも少し高い、これは絵描き何人分の生活だ、という浅間《あさま》しき事を考えて見たりする。たまたまわれわれの一生よりも安価な品物や、天王寺屋兵助を見るに及んで何となき愛情を私は感じる。
 もしも、人間としての体格が立派で、生活力が猛烈で、人間の味《あじわ》い得るあらゆる幸福は味って置きたいという、そして大和魂《やまとだましい》というものを認め得ない処の近代的にして聡明《そうめ
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