位の痛さはあるだろう。そんな場合、死んだ真似をしてしばらく寝ているに限る。すると鹿は強いギャロップ勇ましく悠々と引き上げて行く。
五、六月、青葉の頃には日に何回となく私は人の悲鳴を聞いたことさえある。ある時は家族づれのうち老婆がやられた。老婆は倒れながら自分の腹の下へ孫を隠した。鹿はその上に乗りかかって両足で敲いているのだった。大勢のものが駆けつけたので鹿は去ったが、その家族は遊びをやめて帰ってしまった。その後老婆は発熱して四、五日寝たということだった。
ある朝、私が顔を洗っていると宿の人が呼びに来た。今、鹿が産気づいています。早く見に来なさいというのだ。私は産というものは一切見たことがなかったので、早速見物に出かけると鹿は近くの馬酔木のかげへ寝て、眼に苦悩を表していた。なるほどその腹は波を打っていた。
大よそ[#「大よそ」は底本では「およそ」]二〇分ばかりすると、鹿は急激に立ち上がって四つの足をふん張った。すると何か透明な水がさっと一升程も飛んだかと思うと、やがて黒い風呂敷包みの如きものがどさりと草の上へ転がったものである。鹿はその風呂敷を丁寧に食べてしまうと、その中からもっとも新鮮にして小さな鹿が現れ、その斑点はことに鮮明で美しく、ぱっちりと眼を開いて珍しい新緑の世界を眺めるのだった。
私が不思議に打たれてぼんやりとしているうちに、子鹿はヒョッコリと立ち上がり、親の後ろへ従って早くも歩いて行くのである。
私はその簡単さに驚いた。春日神社へ行くと安産のお守を売っているがなるほどと私は感づいた。
男鹿がその威力を現すのは何といっても秋の交尾期だ。夜も昼も森の中で彼は叫び通して異性を呼んでいる。それは相当悲しむべき声である。そのもっとも大にして年経たものはすさまじき酋長の面構えで、多くの女鹿をしたがえて威張っている。
彼はこの季節になると軒に干してある手拭い、風呂敷、ハンカチーフの別なく何によらず時にはバケツでさえも彼の角をもってさらって行く。そしてどうするのかといえば、それを彼の巨大な角の先へ巻きつけて、女鹿の前をその勇壮な姿において行進して見るのである。それは新調のネクタイを彼女に見てもらい、学生がわざわざその帽子を破り、画学生がブルーズを汚すのとほぼ同じものらしいのである。なお彼は水溜りの中へもぐり込みその泥を全身に塗りつけて、とても手荒い相貌を製
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