ので先代からの古い番頭に訊《たず》ねて見たり父に問うたりして見たが、皆はっきりしたことは知らないらしかった。番頭の音七は何んでもあんた、あれは親|旦那《だんな》の親旦那のその親旦那の時分によその古手を買いはったもので、その以前はやはりある薬屋の看板やったといいますというのだ。そして私の知っているのでは、島之内焼けという大火事の時に何んと火の手が、隣の豊田はんまで来た時に、急に風むきが変って、あんた妙なもんや、私とこはそのままに焼け残ったもんだす。あまりの不思議に天水香の亀が水を噴《ふ》いたというてえらい評判だした。と彼は常に私に吹聴《ふいちょう》するのだった。それから、明治の始めには、ある毛唐《けとう》があの亀を売ってくれといって来たという話も屡次《しばしば》していた。その時あの亀の目玉にはダイヤモンドがちりばめてあるのだという風評が立った。勿論、あれだけの大きな眼球がダイヤモンドであったら、私自身は今ごろ、どんな道楽息子になっていたか知れない。幸いにしてガラスであり、その中に綿が入れてあったから、私は画家《えかき》位で収まっているのである。
 しかし、西洋人としては、亀の眼球はどうであろうとも、ある東洋的なほりもの[#「ほりもの」に傍点]として、ほしがったということは事実であったことかも知れない。
 とにかく、この荘厳な亀は看板としてはかなり人の注意を惹《ひ》く事において成功していたものに違いなかった。堺筋の亀の看板というと車屋でもヘイヘイといって直ぐ走り出したくらいである。そしてそのグロテスクな相貌《そうぼう》は、よほど近所の子供たちにとってはおそろしいものの一つであったと見えて母や子守や父親が、泣いている子を私の家の前へ連れて来て、「それ見なはれ無理をいうと噛《か》みまっせ噛ましまよか、さあどうだす」といっておどかしているのを私は常に店番をしながら眺めていたのである。
 その亀は楠で作られてはいるが、永年の雨露にさらされ、頭だけは早く朽ちてしまうために、私の家の二階の納屋《なや》には古い頭が二つころがっていた。
 彫刻師が誰であったか、何もかもが不明である。私の先祖の自伝の中にもこの亀については記していない処を見ると、あまり問題にもしていなかったのかも知れない。古い出ものがあったから看板によかろ、大きいから屋根へ上げて置けといっていたのかも知れない。
 ところ
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