この意味においては、われわれは蘇露のコロンタイ女史の如く、一にも二にも託児所主義であって、男子も婦人も家庭外に出て働くのが理想的であるという考え方にはとうてい賛成できない。
子どもの哺乳と養育とは母親にとって、もっと重く関心と、心遣いせらるべきものである。動物的、本能的愛護と、手足の労働による世話と、犠牲的奉仕とが母性愛と母子間の従属、融合の愛と理解と感謝とに如何に大きな影響を持つかは思い半ばにすぎるものがある。人倫の根本愛の雛型である母子間の結紐を稀薄にすることが理想的社会の結合を暖かく、堅くするとはどうしても思われない。婦人は少なくとも三人や、四人の子どもは産んでくれねばならぬ。そして一人の子どもの哺乳や、添寝や、夜泣きや、おしっこの始末や、おしめの洗濯でさえも実に睡眠不足と過労とになりがちなものであるのに、一日外で労働して疲労して帰って、翌日はまた託児所にあずけて外出するというようなことで、果して母らしい愛育ができるであろうか。二十五、六歳で結婚するとして、相つぐ妊娠と分娩と哺乳と愛育とを考えれば、婦人と職業との問題は決して矛盾なく解決せらるべきものではない。子どものない婦人や独身婦人の場合は例外である。特殊な天才的才能を恵まれた婦人の場合も例外である。原則としては、理想的社会においては、普通の婦人は、自然が課したる母性としての特別任務をまず果して、それと両立し、少なくとも協定し得る限りにおいて、職業戦線に進出すべきものではあるまいか。
今日の社会では実に婦人は保護されていない。婦人としては男子の圧迫と戦うために職業戦線に出なければならない有様である。婦人の自由の実力を握るための職業進出である。婦人は母性愛と家庭とをある程度まで犠牲としても、自分を保護し、自由を獲得しなければならない事情がある。これは結局は社会改革と男性の矜《ほこ》りある自覚とにまたなければならない問題である。母性愛と職業との矛盾は国家の保護政策を抜きにして解決の道はない。元来子孫の維持と優生という男女協同の任務の遂行が、女子に特別な負荷を要求する以上、男子が女子を保護しなければならないのは当然のことである。しかるに今日においては国法は男子の利益においてきめられ社会は母性と、産児と、未亡人とを保護しない。妊娠すれば職を失わなくてはならぬ有様である。しかも共稼ぎしなくては子どもを養育できない
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