ません。私は一生涯、これらのものを問題として常におそれず取扱うようなベルーフがほしいと思います。なにとぞ自重なすって下さいまし。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 三月二十八日。別府より)

   隠遁への思慕

 私は心がおちつかなくて、あなたに永い永い間御無沙汰してしまいました。私はどうも別府に来てから以来、心に平静と安息とを感ずることができなくて、いつも心が動揺しています。この頃は気まぐれな天候にて、ちらと青空が見えたかと思えば、すぐに曇って雨となったり、風がひどく吹いてにわかに寒くなったりいたしますので、いっそう心が静かになりません。あなたはこの頃は雨天続きにて、不安な心地で暮らしていらっしゃるのではなかろうかと思われます。桜もおおかた散ってしまって、柔らかな新緑の心地よく、眼にしむように感ぜられるまでの、あの悩ましい晩春の心地のなかに通学したり、読書したりして暮らしていらっしゃるのでしょう。あなたの静かな、ものを包みはぐくむような御生活や、たのしい音楽会などのおたよりは、いつも私の淋しい生活になぐさめを送ります。そして私はいつもあなたらと朝夕往復のできるために上京して、郊外の静かなところに住んでいたいと思わないことはありません。私はもはや永くあなたと会いませんね。私はお懐かしく存じます。
 私はどのような境遇にても忍んで生きたいとは思いますけれど、ことさらに私の魂の育ち行くのにフェボラブルでないところに住みたくはありません。ことに心の平静をこぼちほしいままな荒々しさや働きのない懶惰《らんだ》な気分のなかに住むことは、もっとも不幸に感ぜられます。私のように誘われやすい弱い、醜い性格のものには、周囲は侮りがたき勢力をもって迫ります。私は病院にいた時のような純な愛の感激を、この地では心に味わうことができません。私は周囲を責めるより私を鞭うたねばなりませんけれど、また私の淋しい傷ついた魂と病めるからだとでは、ふさわしからぬ周囲の事情風物をも責めずにはいられません。つづまるところ、私のこの地に来たのは神のみ心でなかったかもしれません。私は尾道にいる私の姉が、来月この地に来るならば、これに妹を托して私は庄原のあの森と池との離れ家に帰ろうかとも思っています。妹と私とは同じような生活をするのはよほど無理です。そのはずです。私が思いますには、私のようにエゴイスチッシュなものは、人を愛するためには人を離れて、人なつかしいような位置に自分を置くのがよいのではありますまいか。私はトマスの隠遁の生活を愛にかなわぬと思って、つとめて衆群と接触するように努めました。けれども、それは私ごときの愛の素質の乏しきものには、人間ぎらいの心を起こさせ、また自ら誘われ、人を惑わす結果になりがちなものであることを知りました。人々の群れのなかに住めば責める心、いやだと思う心が、はるかに多く私の胸を占領します。また自ら卑しくなる心地がいたします。だいいち、女をナハバーリンとして愛することは私にはよほど困難です。お絹さんなどに対してももとより外にあらわれる行為の表現は言葉も態度も品を失わずにすみますけれど、心に動くエロチッシュの興味を何といたしましょう。しかもこれ神様の眼には免るることのできぬ姦淫《かんいん》です。もし人々の群れを離れて淋しきに住めば、どのような人をも懐しがり、女をもナハバーリンとして、その幸福を祈ってやることができるのではありますまいか。
 私は再び隠遁《いんとん》に帰りたくなりました。どれだけの周囲が自分に許さるるかは、その人の器の大小によるのでありますまいか、キリストはサマリヤの娼婦《しょうふ》にもただちに近づいて説教しました。けれどもし、淫欲の心燃ゆる下根の人間が、ただちに女に近づくのが愛の行為でしょうか、私は隠遁の真の心持ちをまだ知りませんでした。自らに与うる力なくして、他人を傷つける心ばかり起こるようでは、衆群にはいるよりも、衆群を避けるほうが愛ではありますまいか。「私のような者があなたたちと接触しては、あなたたちのためになりません」こういって隠遁するのはいけないのでしょうか? まして触れれば触れるだけ相互の魂を汚すばかりであるときには、「さようなら」を告げるのも正しくないとはいわれないかと思われます。私はトマスの隠遁の心持ちが少しはわかったように思われます。私はこの頃は「さようならを告げる心持ちの根拠」について考えています。万人と万物とを随所随時に愛することのできる自由の境地は私たちの最ものぞむところながら、「造られるもの」がかかる境地に行くまでには強い隠遁の欲求――愛と純潔より生ずる――が起こるべきではありますまいか、キリストの四十日四十夜の荒野の生活、モーゼの三年の隠遁、フランシスの洞窟《どうくつ》のソリチュードなどが思われます。私な
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