広島のある病院に勤めています。ホームにいのちを見いだそうとする彼女のねがいに、私のような淋しいあくがれでどうして応じられましょう。私はおなかのうちで深く彼女のいじらしい姿を抱き収めています。人生の永い悲哀と恨みとは私の心の底に沁み込んで私の魂の本質になりました。あなたの二十日ほど寝起きなさったあの裏座敷に、妹の上京後は私ひとりで陰気くさい顔をして、暮らしています。今日はことに雨が煙るように降って心が沈んでいけません。妹が今朝謙さんの「朝」を送ってくれました。文展の絵はがきなど見ながら、東京の様子をしのんでいます。早くあなたがたにもお目にかかりたいものですね、大切になさいませ。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 十月三十日。庄原より)
お絹さんとのトラブル
庄原を出発してから一度も便りをいたしませぬゆえ、私の身の上を案じていて下さいますことと存じます。その間に私にはまた事件が生じました。私は今夜から鹿ヶ谷の一燈園に入って修業する決心になりました。その間の経過をお通知いたします。
私は庄原を出て広島の親戚に二日泊り、翌日尾道に来る途中糸崎という海岸の漁師町のとある宿屋でお絹さんに会いました。そして今の私のあくがれを語りました。その語らいはどうしても悲しいものにならずにいられるはずはありません。彼女はいく度もいく度も泣きました。そして私も何ともいたし方はありませんでした。彼女は別れを惜しんでなかなか帰ろうとはいたしません。私も無理に帰す勇気もありませんでした。病院の方は二、三日暇をもらって出たのだからかまわないというものですから、ついに糸崎で三日泊りました。四日目の朝もはやどうしても帰れと私は強く主張しました。それはもし病院のほうが免職になってはならないと私が心配したからでした。そして「今日帰る」と電報を打たせにやりました。しかるにお絹さんは「明日帰る」と打電して帰りました。それで一日のびました。同じ一日過ごすなら糸崎よりも福山に行こうといって福山に参りました。翌朝今朝はどうしても帰れといってまた電報を打たせにやりました。しかるに彼女はまた「あすかえる」と行って帰りました。そして「どうしても別れたくない。も一日そばにおらしてくれ」といって泣くばかりでした。私もあわれにかわゆく思われて無理に帰らすこともできず、また一日延びました。このようにしてついに六日が過ぎました。そして六日目にお絹さんも決心して今日の午後には必ず広島に帰るといって食後二人でまた悲しいことばかり繰り返して語っているところへ、突然警察署から巡査が来ました。そして二人は福山警察署に連れて行かれました。
警察署に行ってみると、尾道から私の叔父が来ていました。あとで事情を聞けば、お絹さんは私が庄原から一燈園に行くという手紙を出してから、常に病院で悲しそうな顔ばかりして、「私は死ぬ死ぬ」と朋輩の看護婦たちにいっていたそうです。それが「ちょっと宮島に行って来る」といって病院を出たきり六日も帰って来ないので、病院のほうではほんとに死にでもするのではないかと心配して、警察に保護願いを出したものとみえます。
私たちは病院のほうで前からの関係を知られていたのでした。私たちは警察でまことに腹立たしいまた恥ずかしい目にあいました。私は叔父に連れられてその日の午後尾道に帰りました。お絹さんは巡査に守られて病院に送られました。私が警察から帰る時お絹さんは後に残って泣いていました。それから私たちは会いません。私は親戚《しんせき》ではげしく叱られました。また正直な国許の父は警察沙汰になったのをひどく不面目に感じて、私を恨みました。私はお絹さんの身の上を心配して、お金や電報や手紙を出しましたが何の返事もありません。どうしているのかわかりません。ただ病院のほうは辞職して太田看護婦会長の家に監禁せられていることだけわかりました。国許の両親はお絹さんをお嫁にもらえと勧めます。また親戚もみなお絹さんと結婚せよと勧めます。そうすればお絹さんもどれほど悦ぶか知れないのです。けれど私は今は宗教的生活の深いねがいを持っています。それに妻を養うかいしょがありません。今の私の心に描いている生活はどうも結婚生活とは調和しそうにありません。私は一概にお絹さんと結婚しないというのではありません。けれど今の私はそんなことをしてはいられない気がするのです。
私は一昨日尾道を無解決のままに放擲しておいて京都に来て西田さんに会いました。そして西田さんの話を聞いてまことに畏れ入りました。私はこれまでの私の生活やまた文壇の今の人々の生活などの虚偽と空虚とを衝《つ》かれました。そして恥ずかしくまた uneasy になりました。
私は西田さんは実に偉いと感服しました。この後は一燈園にとどまり、天香師を善知識として修業
前へ
次へ
全66ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング