と信心は一致するものでございましょうか。
親鸞 恋は信心に入る通路だよ。人間の純な一すじな願いをつき詰めて行けば、皆宗教的意識にはいり込むのだ。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。そこから信心は近いのだ。
唯円 では私は恋をしてもよろしいのですか。
親鸞 (ほほえむ)お前の問い方は愛らしいな。私はよいとも悪いとも言わない。恋をすればするでよい。ただまじめに一すじにやれ。
唯円 あなたも恋をなさいましたか。
親鸞 うむ。(間)私が比叡山《ひえいざん》で一生懸命修行しているころであった。慈鎮和尚《じちんかしょう》様の御名代《ごみょうだい》で宮中に参内《さんだい》して天皇の御前で和歌を詠《よ》ませられた。その時の題が恋というのだよ。ところがあまた公家《くげ》たちの歌よみの中で私のがいちばんすぐれているとて天皇のお気に召したのだよ。そして御褒美《ごほうび》をばいただいた。私は恐縮してさがろうとした。すると公家《くげ》の中の一人がかような歌をよむからにはお前は恋をしたのに相違ない。恋をした者でなくてはわからぬ気持ちだ。どうだ恋をした事があるだろうときくのだ。
唯円 あなたはなんとお答えあそばしましたか。
親鸞 そのような覚えはありませんと言った。するとその公家がそのようにうそを言ってもだめだ。出家の身で恋をするとはけしからんと言うのだ。ほかの公家たちがクスクス笑っているのが聞こえた。
唯円 まじめに言ったのではないのですか。
親鸞 からかって笑い草にしたのだよ。私は威厳を傷つけられて御所を退出した。どんなに恥ずかしい気がしたろう。それから比叡山《ひえいざん》に帰る道すがら、私はまじめに考えてみずにはいられなかった。私はほんとうに恋を知らないのであろうか。私はそうとは言えなかった。ではなぜ恋をしましたと言えなかったのか? なぜうそをついたのか。出家は恋をしてはいけない事になっているからだ。私はいやな気がした。私は自分らの生活の虚偽を今さらのように憎悪した。そして山上の修行が一つの型になっているのがたまらなく偽善のように感じられた。その時から私は山を下る気を起こしだした。もっとうそをつかずに暮らす方《ほう》はないか。恋をしても救われる道はないかと考えずにはいられなかった。
唯円 およそ悪の中でも偽善ほど悪いものは無いのです
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