渡世ではないよ。優しくしていればきりがつかないのだ。吉助ばかりではない。この辺の百姓は皆そうだ。わしは時々|自暴《やけ》になるような気がするよ。世の中の人間が皆きらいになるよ。
お兼 でもこのお正月だけは無事に祝わせておやりなさいな。あまり手荒な事をして恨みを結んだりしては寝ざめがよくないわ。人にたたかれたのでは寝られるが、人をたたいたのでは寝られないと言うではありませんか。(間)まあ御飯をおあがりあそばせ。(裏口より退場)
左衛門 松若、お前はさっきから何を見てるのだい。
松若 かあ様の絵の本だよ。仏壇の卓にあったのだ。たくさん絵があるよ。御殿やお寺の絵もあるし、鬼が火の車をひいている絵もあるし、それから……
左衛門 はあ。あの「地獄《じごく》極楽《ごくらく》のしるべ」か。
松若 地獄極楽って私知ってるよ。善《よ》いことをしたものは死んで極楽に行くし、悪い事をしたものは地獄に行くのだろう。だがあれはほんとうかい。
左衛門 皆うそだよ。そう言って戒めてあるのだよ。(考えて)もしほんとうとしたら、地獄だけあるだろうよ。はゝゝゝ。
松若 ここに子供が川ばたでたくさん石を積んで、鬼が金棒でくずしている絵があるがこれはなんだろうね。
左衛門 (暗い顔をする)それは賽《さい》の河原《かわら》と言って子供が死んだら行く所だ。
松若 私は死んだら賽の河原へ行くのかい。
左衛門 皆うそだ。つくり話だ。(松若の顔を見る)その本はもう見るのおよし。
松若 私はなんだかこの本がおもしろいよ。
左衛門 いやそれは子供の見る本ではない。(松若より絵本を取る)お前は寒いからもうお寝《やす》みよ。また風をひくといけないからな。
松若 まだ眠くないよ。
お兼 (登場。箱膳《はこぜん》の上に徳利を載せて左衛門の前に置く)お待ち遠さま。ひもじかったでしょう。さあおあがりなさい。(徳利を持つ)
左衛門 (杯をさし出し注《つ》いでもらって飲む)お兼。わしもなひどいことをするのは元来好きなたちではないのだ。小さい時から人のけんかをするのを見ても胸がドキドキしたくらいだよ。だがあんなふうにして殿様に見捨てられて、浪人になってこっちに渡って来てから、わしは世間の人の腹の悪さをいやになるほど知ったからな。人は皆悪いのだ。信じたものは売られるのだ。心の善《よ》いものはばかな目を見せられて、とても世渡りはできないのだ
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