朝に別れたきりお目にかからないのだ。あの夜の事は忘れられない。
唯円 すごいような吹雪《ふぶき》の夜でしたっけね。私は子供心にもはっきりと覚えています。
親鸞 お前はまだ稚《おさ》ない童子だったがな。あのころから少しからだが弱いと言っておかあさんは案じていらしたっけ。
唯円 あの時あなたが門口のところで、もうお別れのときに、私を衣のなかに抱いてくだすったのを私は今でもよく覚えています。
親鸞 もう会えるか会えないかもわからずに、どこともなしに立ち去ったのだった。
唯円 師と弟子《でし》との契りを結ぶようになろうとは夢にも思いませんでした。
親鸞 縁が深かったのだね。
唯円 (しばらく沈黙、やがて思い入れたように)お師匠様、あなたは私を愛してくださいますか。
親鸞 妙な事をきくね。お前どうお思いかな。
唯円 愛してくださいます。(急に涙をこぼす)私はもったいないほどでございます。私はあなたの御恩は一生忘れません。私はあなたのためならなんでもいたします。私は死んでもいといません。(すすり泣く)
親鸞 (唯円の肩に手を置く)どうした。唯円。なんでそんなに感動するのだ。
唯円 私はあなたの愛にすがって頼みます。どうぞ善鸞様をゆるしてあげてください。善鸞様と会ってください。
親鸞 …………
唯円 私はたまりません。善鸞様は善《よ》いかたです。不幸なかたです。だれがあのかたを憎む事ができるものですか。皆が悪いのです。世の中が不調和なのです。皆が寄ってたかってあのかたをあのようにしたのです。あのかたはあなたを愛していらっしゃいます。どうぞ会ってあげてください。ゆるしてあげてください。私がすぐに行ってお連れ申します。どんなにお喜びなさるか知れません。
親鸞 (苦痛を制したる落ち付きにて)お前は善鸞と会いましたか。
唯円 私は会いました。きょう善鸞様からお使いが来て私はあなたに内緒で会いに行きました。私はうそを申しました。私は木屋町に用たしに行くと言ったのは偽りです。善鸞様は木屋町にいられます。私はうそを申しました。
親鸞 善鸞はどうしていましたか。
唯円 (思い切って)私が行った時には遊女や太鼓持ちとお酒を飲んでいられました。
親鸞 そのような席にお前を呼んだのか。純な、幼いお前を。放縦《ほうしょう》な人は小さいものをつまずかすことをおそれないのだ。
唯円 でも善鸞様はこのような所
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