と聞いています。
善鸞 あゝ私は素直なまともな心を回復したい。
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両人沈黙して考えている。
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唯円 あなたはお父上に会いたくはありませんか。
善鸞 会いたくても会えないのです。
唯円 私がお師匠様に頼んでみましょうか。
善鸞 ありがとうございますが、ほっておいでください。とても会ってはくれませんから。
唯円 でもお師匠様も心ではあなたに会いたくっていらっしゃるのです。父と子とがどちらも会いたがっている。それが会えなくてはうそだと思います。それを妨げる力はなんでしょう。私はその力をこわしたい。私はたまらない気がします。
善鸞 その力は私の恋を破った力と同じ力です。その力はなかなか強いものなのです。私はその力を呪《のろ》います。しかしそれをこわす力がありません。
唯円 それは社会意志です。世の中のかたくなな無数の人々の意志です。その力は私のお寺の中をも支配しています。私はこのあいだその力に触れました。あゝどうして世の人はもっと情けを知らぬのでしょう。おのれの硬《かた》い心が他人を苦しめていることに気がつかぬのでしょう。私はなさけなくなります。
善鸞 私が今父に会う事は父のためにもなりません。たとい父がそれを許してくれても。浮き世の義理というものは苦しいものです。私は幼い時からその冷たい力に触れました。実は私は父の妻の子では無いのです。
唯円 (驚く)それは初めて承ります。
善鸞 私の母は稲田《いなだ》のある武士の娘でした。父が越後《えちご》にいる時に父の妻はなくなりました。父は諸方を巡礼して稲田に来て私の母の父の家に足を止め、稲田に十五年すみました。その間に私の母と父とは恋に落ちました。私はそのようにして生まれたのです。私は父母を父母と呼びうるまでには暗い月日を過ごしました。私は父をとがめる気は少しもありません。そこには人生の愛と運命の悲しさがありましょう。
唯円 あなたの母上はどうなされました。
善鸞 父が京へ帰るとき稲田に残りましたが、もはや死んでしまいました。
唯円 ほんとうに世の中は限りもなくさびしいものでございますね。
善鸞 私には世界は悲しみの谷のごとくに見えます。
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両人沈黙。
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