な心の働きがその心境からおのずと出てくる。目は英知に輝き、心気は澄んでくる。いろいろな欲望や、悩みや、争いはありながらも、それに即して、直ちに静かさがあるのである。これを「至徳の風静かに衆禍の波転ず」と親鸞はいった。「生死即涅槃」といって、これが大涅槃である。涅槃に達しても、男子は男子であり、女子は女子である。女性はあくまで女性としての天真爛漫であって、男性らしくならなければ、中性になるのでもない。女性としての心霊の美しさがくまなく発揮されるのである。
しかしながら涅槃の境地に直ちに達しられるものではない。それにはいろいろな人生の歩みと、心境の遍歴とを経ねばならぬ。信仰を求めつつ、現在の生活に真面目で、熱心で、正直であれば、次第にそのさとり[#「さとり」に傍点]の境地に近づいて行くのである。それ故信仰の女性というのは、普通の場合、信仰の求道者の女性という意味であって、またそれでいいのである。しかし初めから信仰というものを古臭いなどと侮って、求める気がないのでは妙智のひらける縁がない。
それが独りよがりの傲慢になってしまうか、中途半端な安逸に満足してしまうかである。
処女は処女としての憧憬と悩みのままに、妻や、母は家庭や、育児の務めや、煩いの中に、職業婦人は生活の分裂と塵労とのうちに、生活を噛みしめ、耐え忍びよりよきを望みつつ、信仰を求めて行くべきである。
信仰を求める誠さえ失わないならば、どんなに足を踏みすべらし、過ちを犯し、失意に陥り、貧苦と罪穢とに沈淪しようとも、必ず仏のみ舟の中での出来ごとであって、それらはみな不滅の生命――涅槃に達する真信打発の機縁となり得るのである。その他のものはどうせことごとく生滅する夢幻にすぎないのだから、恐るべきは過ちや、失則や、沈淪ではなくして、信仰を求める誠の足りなさである。
二 母性愛
私の目に塵が入ると、私の母は静かに私を臥させて、乳房を出して乳汁を目に二、三滴落してくれた。やわらかくまぶたに滲む乳汁に塵でチクチクしていた目の中がうるおうて塵が除れた。
亡くなった母を思い出すたびに、私は幼いときのその乳汁を目に落してくれた母が一番目の前に浮かぶのだ。なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛!
岩波書店主茂雄君のお母さんは信濃の田舎で田畑を耕し岩波君の学資を仕送りした。たまに上京したとき
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