。ただそれを磨き出さなければならない。
現代では、日本の新しい女性は科学と芸術とには目を開いたけれども、宗教というものは古臭いものとして捨ててかえりみなかったが、最近になって、またこの人性の至宝ともいうべき宗教を、泥土のなかから拾いあげて、ふたたび見なおし、磨き上げようとする傾向が興ってきたのは、よろこばしいことである。
女性に宗教心のないのは「玉の杯底なきが如し」である。信心の英知の目をみ開いた女性ほど尊いものはないのである。そうでないとどんなに利口で、才能があり、美しくても何か足りない。しかも一番深いものが足りない。また普通にいって品行正しい、慈愛深いというだけでもやはりいま一息である。その正しいとか、いつくしみとかいうものが信仰の火で練られて、柔くなり、角がとれ、貧しくならねばならない。
信仰というものがなくては女性として仕上げができていないということを忘れてはならない。信仰を古いもの不要のものとして捨てて、かえりみないということは本当に浅はかなことなのである。
また信仰をモダンとか、シイクとかいうような生活様式の趣味や、型と矛盾するように思ったり、職業上や生活上の戦いの繊鋭、果敢というようなものと相いれないように考えたりするのも間違いである。信仰というものはそんな狭い、融通のきかないものではない。仏法などは無相の相といって、どんな形にでも変転することができる。墨染の衣にでも、花嫁の振袖にでも、イヴニングドレスにでも、信仰の心を包むことは自由である。草の庵でも、コンクリート建築の築地本願寺でも、アパートの三階でも信仰の身をおくことは随意である。そういう形の上に信仰の心があるのではない。モダンが好みならどんな超モダンでもいい、ただその中に包まれた信仰の心がないのがいけないのである。薄っぺらなのである。
また職業上の自由競争とか、生活上の戦術とかいうようなものも、思う存分やっていい。ただそれに即して直ちに念仏のこころがあればいいのである。浄土真宗の信仰などはそれを主眼とするのである、信仰というものをただ上品な、よそ行きのものと思ってはならない。お寺の中で仏像を拝むことと考えては違う。念仏の心が裏打ちしていれば、自由競争も、戦術も、おのずと相違してくるのである。この外側からはわからない内側の心持の世界というものが、限りない深さと広がりとのあるもので、それが
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