太子の入山』の中の太子の母などは、この種の道と法とに高められ、照らされた、母性愛を描いたものである。
 私は数年前、『女性美の諸段階について』というエッセイを書いたことがあった。その中で私はあらゆる女性美の型を、その中に含まれている「善」の段階に比例して、下級のものから取り扱っていった。最低位に「継母」があり、「鬼女」「淫女」等がこれに次ぎ、「淑女」「貴婦人」「童女」「天女」等とさかのぼり、最高の段階に聖母が位した。そして種々の聖母像の中で、どの聖母が最も美しいかを定めようとして、ついにファン・エックの聖母と、デューラーの聖母とが残り、この二つのうちついにデューラーの聖母が最後にサーヴァイブしたのであった。
 ファン・エックの聖母は高貴な瓔珞《ようらく》をいただいているが子どもにはぐくませる乳房のふくらみなく、その手は細く、しなやかであるが、抱いてる子どもの重さにもたえそうにもない。これに反しデューラーのマリアは貧しい頭巾をかぶっているが乳房は健かにふくれ、その手はひびが切れてあれているがしっかりと子どもを抱くに足り、おしめ[#「おしめ」に傍点]の洗濯にもたえそうだ。子どもを育て得ぬファン・エックの聖母は如何に高貴で、美しくても「母」たるの資格がない。現実の人生においては、デューラーの聖母を選ぶべきである。すなわち、子どもを哺育し、その世話をする労務にたえ得る母、その手のあれ[#「あれ」に傍点]たるマリアでなくてはならぬ。何故なら愛は実践であり、心霊の清浄と高貴とは愛の実践によってのみ達せられるものだからである。
[#地から2字上げ](一九三四・一〇・三一)

     三 恋愛――結婚(上)

 恋愛は女性が母となるための門である。よき恋愛から入らずよい母となることはできぬ。女性は恋愛によって自分の産む子に遺伝し、感染させたいような諸特徴を持った男性を選ぶのである。この選択が無意識的になされるところに恋愛という本能のはたらきがあるのだ。しかしそれだからといって恋愛を母となるための手段と見るのはたりない。花は実を結ぶ手段ではあるが、実は花を咲かすための手段ともとれる。恋愛はやはり人生の開花であると見るべきだ。女性の造化から与えられているさまざまの霊能が恋愛の本能の開発する時期に同時に目をさまし、生き生きとあらわれてくる。美と力とそしてことに霊の憧憬が恋愛の感情ととも
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