焼かれた。それ故「海の児」「日の児」としての烙印が彼の性格におされた。「われ日本の大船とならん」というような表現を彼は好んだ。また彼の消息には「鏡の如く、もちひ[#「もちひ」に傍点]のやうな」日輪の譬喩が非常に多い。
 彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退|挺特《ていとく》」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」
 日蓮の出家求道の発足は認識[#「認識」に傍点]への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。
それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。
 第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。
 日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変である。この日本の国体の順逆を犯した不祥の事変は日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲《へきすい》の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。
 日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎《かんけつ》のために貶せられて零落したものであった。資性正大にして健剛な日蓮の濁りなき年少の心には、この事実は深き疑団とならずにはいなかったろう。何故に悪が善に勝つかということほど純直な童心をいたましめるものはないからだ。
 彼は世界と人倫との究竟の理法と依拠とを求めずにはいられなかった。当時の学問と思想との文化的所与の下に、彼がそれを仏法に求めたのは当然であった。しかし仏法とは一体何であ
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