、とりまく群衆の心に燃えうつらないわけにはいかなかったろう。彼の帰依者はまし、反響は大きくなった。そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。
この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇を得たことを喜び、行住坐臥に法華経をよみ行ずること、人生の至悦であると帰依者天津ノ城主工藤吉隆に書いている。
二年の後に日蓮は許されて鎌倉に帰った。
彼は法難によって殉教することを期する身の、しきりに故郷のことが思われて、清澄を追われて十三年ぶりに故郷の母をかえりみた。父は彼の岩本入蔵中にみまかったのでその墓参をかねての帰省であった。
「日蓮此の法門の故に怨まれて死せんこと決定也。今一度故郷へ下つて親しき人々をも見ばやと思ひ、文永元年十月三日に安房国へ下つて三十余日也。(波木井御書)」
折しも母は大病であったのを、日蓮は祈願をこめてこれを癒した。日蓮はいたって孝心深かった。それは後に身延隠棲のところでも書くが、その至情はそくそくとしてわれわれを感動させるものがある。今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。
[#ここから2字下げ]
うつそみの親のみすがた木につくりただに額《ぬか》ずり哭き給ひけん
[#ここで字下げ終わり]
これは先年その木像を見て私が作った歌だ。
この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰するようにいましめた。日蓮のこの道善への弟子としての礼と情愛とは世にも美しいものであり、この一事あるによって私は日蓮をいかばかり敬愛するかしれない。凡庸の師をも本師道善房といって、「表にはかたきの如くにくみ給うた」師を身延隠栖の後まで一生涯うやまい慕うた。父母の恩、師の恩、国土の恩、日蓮をつき動かしたこの感恩の至情は近代知識層の冷やかに見来ったところのものであり、しかも運命共同体の根本結紐として、今や最も重視されんとしつつあるところのものである。
しかるにその翌月、十一月十一日には果してまたもや大法難にあって日蓮は危うく一命を失うところであった。
天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨を
前へ
次へ
全22ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング