学生と教養
――教養と倫理学――
倉田百三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)至完善《フォルコンメンデスゲート》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)いわゆる|実質的価値の倫理学《マテリィアーレウェルトエティク》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)倫理的な問い[#「問い」に傍点]
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     一 倫理的な問いの先行

 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低卑であることはそれにもまして恥じねばならぬことである。人の道、天の理、心の自律――近くは人間学的倫理学の強調するような「世の中の道」にまでひろがるところの一般の倫理的なるものへの関心と心得とはカルチュアの中心題目といわねばならぬ。人生の事象をよろず善悪のひろがりから眺める態度、これこそ人格という語をかたちづくる中核的意味でなければならぬ。私はいかなる卓越した才能あり、功業をとげたる人物であっても、彼がもしこの態度において情熱を持っていないならば決して尊敬の念を持ち得ないものである。その人生における職分が政治、科学、実業、芸術のいずれの方面に向かおうとも、彼の伝記が書かれるときには、あのワシントンのそれのように、小学校の教科書には「彼は偉大にして、善き人間なりき」と書かれるようにありたいものである。自分如きも、青春期、いのちの目ざめのときの発足は「善い人間」になりたいということであった。「最も善い人間が最も幸福でなければならぬ」と自分は思った。自分はまだそのときカントの第二批判を知らなかったが、自分のたましいの欲するところはとりもなおさずカントの至完善《フォルコンメンデスゲート》の要請であったのである。人間の倫理的養成がいかにわれらの禀性に本具しているかはこれでも思いあたるのである。その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるからだ。最も許しがたいのは倫理的なものに関心を持たぬアモラールである。それは人間としての素質の低卑の徴候であって、青年として最も忌むべき不健康性である。健康なる青年にあってはその性慾の目ざめと同時に、その倫理的感覚が呼びさまされ、恋愛と正義とがひとつに融かされて要請されるものである。
 さてかような倫理的要請は必ず倫理学《エティク》という学に向かうとは限らない。一般に科学というものを知らなかった上古の人間も学としての形態の充分ととのっていない支那や日本の諸子百家の教えも、また文字なき田夫野人の世渡りの法にも倫理的関心と探究と実践とはある。しかし現代に生を享けて、しかも学徒としての境遇におかれたインテリゲンチャの青年にあっては、その倫理的要請は倫理学というひとつの合理的なる学に向かうということはきわめて自然なことである。自分の如きもその過程をとった一人であった。
 上述の如く倫理学の研究にはまず人生の事象についての、倫理的関心と情熱とが先行しなければならぬ。そしてその具体的研究の第一着手は倫理的な問い[#「問い」に傍点]から発足しなければならぬ。問いはすべての初めである。しかもまた問いはその解決でさえもあるのだ。ハイデッガーが「問いは何ものかへの問いとして『問われているもの』を持っている」といってるように、問いの中にすでにその事柄の本質が横たわっているのである。問いなくして倫理学の研究に着手することは無意味である。また問いこそその討究を真剣ならしめる推進機である。いかに問うかということ、その問い方の大いさ、深さ、強さ、細かさがやがてその解答のそれらを決定する条件である。故に倫理学の書をまだ一ページもひるがえさぬ先きに、倫理的な問いが研究者の胸裡にわだかまっていなければならぬ。そして実はその倫理的な問いたるや、すでに青年の胸を悩まし、圧しつけ、迷わしめているところの、活ける人生の実践的疑団でなくてはならないのだ。
 かくてこそ倫理学の書をひもどくや、自分の悩んでいる諸問題がそこに取り扱われ、解決を見出さんとして種々の視角と立場とより俎上にあげられているのを見て、人事ならぬ思いを抱くであろう。たといそれは充分には解決されず、諸説まちまちであり、また結論するところ自分を完くは満足させてくれなくとも、ともかくも自分の関心せずにおられぬ活きた人生の実践的問題がとりあげられ、巷間の常識ではそのままうち捨てられているのに、ここでは鋭い問いを発し熱心に討究されているのを見出しては、わが身に近く感じずにはいられない。この身に親しいインティメイトな感じが倫理学への愛と同情と研究の恒心《コンスタンイン》とを保証するものなのである。

     二 倫理学の入門

 倫理学の祖といわれるソクラテス以来最近のシェーラーやハルトマンらの現象学派の倫理学にいたるまで、人間の内面生活ならびに社会生活の一切の道徳的に重要な諸問題が、それを一貫する原理の探究を目ざしてとりあげられていないものはない。しかし初学者が倫理学研究の入門として、上述の倫理的問いをもって発足するには、やはりテオドル・リップスの『倫理学の根本問題』などが最もいいであろう。もっともこれはコーヘンとともに新カント派のいわゆる形式主義の倫理学であって、流行の「実質的価値の倫理学」とは相違した立場であるが、それにもかかわらず、深い内面性と健やかな合理的意志と、ならびに活きた人生の生命的交感とをもって、よく倫理学の本質的に重要な諸根本[#「根本」に傍点]問題をとりあげその解決、少なくとも解決の示唆を与えているからである。この本は生の臭覚の欠けたいわゆる腐儒的道学者の感がなく、それかといって芸術的交感と社会的趨勢とに気をひかれすぎて、内面的自律の厳粛性の弱くなったきらいがなく(現象学派には多少この傾きがなくもない)意志の自律性を強靭に固守する点で形式的主観的でありながら、人間行為の客観的妥当性を強調して、主観的制約を脱せしめようと努め、また学的には充分な生の芸術的感覚の背景が行間に揺曳して、油気のない道学者の感がないからである。
 初学者はこの書によって入門し、倫理学の根本課題の所在と、その解決の諸方途との手引きを得ることを自分は薦めたい。
 私のこの稿は専門の倫理学者になる青年のためではなく、一般に人間教養としての倫理学研究のためであるが、人間の倫理的疑問及びその解決法は人と所と時とによって多様であるように見えても、自ら、きまった、共通なものである。まずその概観を得るがいい。それとともに倫理学史を読むべきだ。これは古今を縦に貫いて人間の倫理的思想が如何に発展し、推移して来たかを見るためである。後なるものは前なるものの欠陥を補い、また人間の社会生活の変革や、一般科学の進歩等の影響に刺激され、また資料を提供されて豊富となって来ている。しかし後期のものがすべての点において前期のものにまさっているとはいえない。ある時代には人性のある点は却って閑却され、それがさらに後にいたって、復活してくることは珍しくない。そしてその復活は元のままのくりかえしではなく必ず新しく止揚されて、現段階に再登場しているのだ。その二千五百年間の人間の倫理思想の発展と推移とを痕づけることは興味津々たるものである。
 倫理学史にはフリードリッヒ・ヨードルの『倫理学史』、ヘンリイ・シヂウィックの『倫理学史の輪郭』、ニコライ・ハルトマンの『独逸観念論史』等がある。邦文には吉田博士の『倫理学史』、三浦藤作の『輓近倫理学説研究』等があるが、現代の倫理学、特に現象学派の倫理学の評述にくわしいものとしては高橋敬視の『西洋倫理学史』などがいいであろう。しかしある人の倫理学はその人の一般哲学根拠の上に築かれないものはないから、倫理学の研究は哲学及び哲学史の研究に伴わねばならぬのはいうまでもない。しかしここではそれには触れない。
 倫理学の根本問題と倫理学史とを学ぶときわれわれは人間存在というものの精神的、理性的構造に神秘の感を抱くとともに、その社会的共同態の生活事実の人間と起源を同じくする制約性を承認せずにはいられない。それとともに人間生活の本能的刺激、生活資料としての感性的なるものの抜くべからざる要請の強さに打たれるであろう。この三つのものの正当なる権利の要求を、如何に全人として調和統合するかが結局倫理学の課題である。

     三 文芸と倫理学

 人生の悩みを持つ青年は多くその解決を求めて文芸に行く。解決は望まれぬまでも何か活きた悩みに触れてもらいたいために小説や、戯曲に行く。それはもとより当然である。文芸はこの生の具象的な事実をその肉づけと香気のままに表現するものだからだ。少なくともそこにはかわいた、煩鎖な概念的理窟や、腐儒的御用的講話や、すべて生の緑野から遊離した死骸のようなものはない。しかし文芸はその約束として個々の体験と事象との具象的描写を事とせねばならぬ故、人生全体としての指導原理の探究を目ざすことはできぬ。それ故一定の目的をもって文芸に向かうものにとっては、それは活きてはいるが低徊的である。それは行為の法則を与えようとしない。行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としなければならぬ。文芸の如く具象的であることはできない。しかしすぐれた倫理学を熟読するならば、いかに著者の人間が誠実に、熱烈に、条理をつくして、その全容を表現しているかを見出して、敬慕の念を抱かずにはいられないであろう。それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれの人格教養の血肉となり、滋養となり、霊感とさえもなる力もまた文芸の作品に劣るものではない。ただ文芸には文芸の約束があり、倫理学にはその特殊の約束があるのみである。カントの道徳哲学を読んで人間理性の自律の崇高感に打たれないものはないであろう。
 倫理学は人間行為の指導原理と法則とを与えようとするのみならず、また学者の個性をも表現する。コーヘンの『純粋意志の倫理学』と、ギヨーの『義務と制裁のない倫理学』とを比較するならば、その個性の対比は文芸作品の個性の差異の如くいちじるしい。所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人間の教養として文学の趣味はあっても倫理学の素養のないということは不具であって、それはその人の美の感覚に比し、善の感覚が鈍いことの証左となり、その人の人間としての素質のある低さと、頽廃への傾向を示すものである。美の感覚強くして善の関心鈍きとき、その美は感覚的の美とならざるを得ない。したがってかかる人の文芸の趣味はまた高い種類のものとは想像出来ないのである。リップスの『美学』を読むものはいかに彼の美の感覚が善の感覚と融合しているかを見て思い半ばにすぎるであろう。しかし生を全体として把握しようとするわれわれの目から見るとき、かくの如きは当然のことである。『モダンペーンター』の著者ラスキンはまた熱心な善の使徒であった。美のセンスと善のセンスとがともに強く、深く、濃まやかであることが第一流の人間としての欠くべからざる教養である。
 自分如きも文芸家となったけれども、学窓にあったときには最も深い倫理学者になることを理想
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