むことは、たといその結果が理想社会に到達しようと、人間性を侮蔑するものである。改革の手段に暴力を用いる用いないの点よりも、この人間の特性の貶斥は最も許し難き冒涜である。人間の道徳意識そのものはマルクスによって泥を塗られただけで少しも高められず、退化するのみである。『キリスト教の本質』を書いたフォイエルバッハの人間の共同生活態という美しい、人類の輝かしい希望をつなぐ理念を物的の意味に引き下してしまって何の役に立つのであろう。資本主義制度はもとより悪い。道徳的意味においてこれは呪詛されねばならぬ。われわれは真の人間の共同態フォイエルバッハの Gemeinschaft des Menschen mit dem Menschen を建設せんことを熱願する。しかし物力の必然でなく、人間の道徳的努力の協同によってそれを成しとげたい。何故なら、つくり上げた共同態はまた道徳的協同によって維持発展されなければならないからである。人性の徳性の花の咲き盛らないような、物的福利の理想社会とは理想社会の名に価しないからである。
 以上自分は与えられたスペースで、青年の教養に資する視点から、倫理学研究の手引きのようなものを書いた。書くべき多くのものが残された。中世期の神秘主義の倫理観、古代のストアやエピクロス派の倫理観、スピノーザやショーペンハウエルの形而上学的倫理観等に触れる暇がなかった。さらに東洋の倫理観にも手が染められなかった。それは本稿の目的上、羅列を事とせずして、活きた倫理的問いを中軸として、一つのまとまりのある叙述をものしたく思ったからである。
 最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務であるが、一般に学の約束として、それは絶えざる認識の拡充としての永久の追求であっていいのである。しかし生の問いは解決されることを要[#「要」に傍点]する。したがって学の中にとどまっていることはできぬ。善悪の二字総じて忘れる宗教のふところに入らねばならぬ。しかし善悪を忘じることは、善悪に執し切った後においてのみ可能なのである。知識青年にして少なくともある時代、倫理学に身をやつさないような人間は決して善悪の彼岸には出で得ぬであろう。
[#地から2字上げ](一九三六・一〇・七)



底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年9月30日初版発行
   1967(昭和42)年6月30日43版発行
   1981(昭和56)年7月30日改版25版発行
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2005年9月9日作成
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