懐疑に陥らざるを得ない。殺すは悪、恵むは善というような意欲の実質的価値判断を混うるならば、祖国のための戦いに加わるは悪か、怠け者の虚言者に恵むは善かというような問いを限りなく生ずるであろう。東洋の禅や、一般に大乗的な宗教の行為の決定に形式の善をとって、実質の善をとらないのもそのためなのである。行為の決定の徹底的な正しさを追究するときには、カントのように純に意志そのものの形式によらざるを得なくなるのは当然であって、この意味で私は新カント派のリップスや、コーヘンの「純粋意志の倫理学」が、現象学派のハルトマンや、シェーラーの「実質的価値の倫理学」よりも共鳴されるのを禁じ得ない。
しかしそれはわれわれが行為決定の際の倫理的懐疑――それは頭のしん[#「しん」に傍点]の割れるような、そのためにクロポトキンの兄が自殺したほどの名状すべからざる苦悩であるが――から倫理学によって救済されんことを求めるからであって、そのほかの観点からすれば、形式主義の倫理学は生の現実について貧困であることはいうまでもない。意欲そのものの善悪、いかに意欲するかでなく何を意欲するかの実質内容につき道徳的判断を下したいのはまたわれわれの今ひとつのやみ難き要請である。この要求からカントの倫理学を修正しようとするものが最近いわゆる|実質的価値の倫理学《マテリィアーレウェルトエティク》である。『倫理学における形式主義の実質的価値倫理学』の著者であるマックス・シェーラーは初めオイケンに師事したが、フッサールの影響を受けて、現象学派の立場に移った。
彼はいう。価値は主観から独立な真の対象であって、価値現象として主観の感情状態や、欲求とは相違する。さまざまな果実の美味は果実の種類によって性質的に異なり、同一の美味が主観の感覚によってさまざまに感じられるのではない。美味そのものの相違である。その如く「純潔な」「臆病な」「気高い」「罪深い」等の倫理的価値もそのものとして先験的に存在するのである。財から抽象されたものでなく、実質的存在を持っている。
次にある価値を実現せしめることが、それ自らには善でも悪でもないというカントの考えは、価値が平等であるときには正しいが、実質的価値には等級がある。したがって意欲の対象たる価値そのものに即した善悪が存在する。より高い価値を実現する行為はより善である。カントが道徳律を全然形式的のものとして、実質的のものを斥けたのは実質はすべてアポステリオリでアプリオリのものは形式のみと考えたためであるが、実質的価値はアプリオリである。先験的倫理学は実質的にも可能である。選択愛憎等の情緒的な心情もアプリオリの内容を持ち、「心情の秩序」が存在する。道徳価値の把握は知的作用によらず、情緒的な直覚によって価値感知《ウェルトフェーレン》されるのである。これがシェーラーのいわゆる情緒的直覚主義の立場である。シェーラーはさらに価値の等級を直観するアプリオリの等級感があるといい、ある意欲対象である価値が、他の意欲のそれといずれが善であるかはこの等級感によってアプリオリに直覚されると主張する。シェーラーを継承してさらに発展せしめたニコライ・ハルトマンも実質的価値が等級において存在し等級感によってアプリオリに直覚されるという点ではシェーラーと同じである。しかしかような情緒的直覚主義が果して行為決定の際のわれわれの懐疑を救ってくれるであろうか。どの価値がどの価値よりも高いかが個人差があることは現にハルトマンがあげている価値等級の典型的表解を見てさえも、われわれとは等級感が相異するのを見てもわかる。まして価値に高さと強さとの二次元を認める以上、高くても弱い価値と、低くても強い価値といずれを選ぶべきかは必ず懐疑に陥れる。大衆を啓蒙すべきか、二、三の法種を鉗鎚すべきか、支那の飢饉に義捐すべきか、愛児の靴を買うべきかはアプリオリに選択できることではない。個々の価値、個々の善を見ずして、あらゆる場合に正しき選択をなし得るような一般的心術そのものをきめようとする倫理上の形式主義には抜くべからざる根拠があるのである。その方向は大乗の宗教に通ずる。しかし意欲そのものに実質的に道徳的価値を付して、より高き意欲に権利を与えんとする要請にもやみがたいものがある。人情にはむしろこの方が適し、小乗の宗教に通じる。性欲を満したいという意欲と、国君に殉死したいという意欲とに、そのものとしての価値等級を付さないことは人情には無理である。大乗の宗教はしかしそこまで徹しなければならないのであるが、倫理学が宗教ならぬ道徳の学であり、人間らしい行為の追求を旨としなくてはならぬ以上、実質的価値の倫理学は人倫の要求により適わしいといわねばならぬ。いずれにせよ、この形式主義か実質主義かの問題は倫理学上の根本問題である。
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