有る者は軽忽に実行運動に加わる前に、しばらく意志を抑制して、倫理学を研究する必要があるのである。何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めないわけにはいかないからである。それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せずにはいられないはずの学問なのである。

     五 根本問題の所在

 この小さな紙幅に倫理学の根本問題を羅列することは不可能である。しかし具体的に問題の所在を示すために二、三の例証を引くことは絶対に必要である。
 先ず道徳思想《モラール》と道徳《ジットリヒカイト》との弁別の問題がある。リップスによれば、モラールは時と処と人とによって異なる道徳的見解、要求の類であり、如何なる民族も、階級も、個人もそれぞれこれを持っている。かかるモラールには真に道にかなう因子が含まれているに相違ないが、人間が人間である限り、道にかなわぬものが混じているのを免れない。ヒルデブラントの道徳的価値盲の説のように、人間の傲慢、懶惰、偏執、欲情、麻痺、自敬の欠乏等によって真の道徳的真理を見る目が覆われているからだ。倫理学はこの道徳盲を克服して、あらゆる人と時と処とにおいて不易なる道徳的真理そのもの、ジットリヒカイトを見出すことを任務とする。
 かかる普遍的に妥当なる道徳的真理が存在するか否かがすでに根本的な問題である。たとえば唯物史観的な倫理学は一定の生産関係、ある階級に妥当なる道徳《モラール》のほかは認めないであろう。また種々に道徳を比較し、分析し、記述することを任務とするという倫理学もある。確かにわれわれが倫理的な問いを持つにいたった痛切な原因にはこの時と処と人とによってモラールが異なるところに発する不安と当惑とがあるのである。
 これに対してリップスはいう。一つの比論《アナロギー》をとれば、物理的真理において、真理そのものを万物の真相は如何という意味にとれば現在の科学は終局的な解答を与えることはできぬ。しかし真理そのものの本質は何か一般に真理の標識は何か。真理を発見せんとするときわれらは如何なる条件を満たさねばならぬか。真理の認識はいかなる法則に依従するか――。かくの如き意味に真理を解するならその解答は可能である。ジットリヒカイトの場合にも厳密にこれと等
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