とができない。かかる人から私は真実信心について何事をも聴こうとは思わない。
一、文士は自分の衣食の方法を常に気にかけていたいものである。いな、いなければならない。人間はいかなる方法でパンを得るが最も正しいのであろうか。世襲の財産によって衣食するのはそのままでは(もっと他の深い心持ちにならなくては)間違いだろう。商業を営むのも、何かの職業につくのもおそらくそのままでは正しくあるまい。原稿料で衣食するのもそのままでは正しくないかもしれない。(死んだ綱島梁川《つなしまりょうせん》氏は死ぬまでそれを気にかけていたそうだ)。その点については西田天香氏はじつに深い実践的研究をしている。氏は釈迦や耶蘇の選んだ方法のみ正しいパンの得方だという。氏はそれを仏飯を食うて生きるという。神に養われて生きる。パンを神にデペンドする方法のみ正しいという。真の乞食、托鉢の方法のみ正しいという。(釈迦と耶蘇はそれを実行した)。私が今これをいうのは早すぎる。(私は世襲財産で生活している。しかも病気ばかりして他人に重荷を負わしている)。しかし私はこれを非常に重大な問題と思っている。そして今の文壇のある派の人々にはことに重大だと思っている。釈迦は王子であった。耶蘇は貧しかった。しかしどちらも尊いという人がある。しかし釈迦は王位を捨てて托鉢したのである。華族に生まれたのはしかたがない。しかしその位を捨てないのは正しいかどうか。富んでるということは、善くも、悪くも無いことではなく、それ自身悪いことである(もし愛を善しと見るならば)。何ゆえその財を貧しいものに頒《わか》たないのか。耶蘇は「二枚の衣あらば一枚を隣人に割け」といった。自分はそれだけの愛がまだ無いのを恥じるというのはいい。しかし罪の意識なくして富んでいるのは愛を説く人には矛盾である。私は富める文士たちとともに、この問題を一生の問題として躬《み》をもって研究したい。きっとそこにごまかしの利《き》かない、したがって真の神への信頼を生み得る宗教的意識が蔵されているに相違ない。西田氏などは聖書のうちから、この問題について深い深い真理を汲み取っている。(この問題については他日詳しく書きたい)。ここでは文壇がこの問題に重大な関心を持つことを希望するに止めておく。今の私がこれをいうのは気がひける。しかし私は気にかけずにはいられない。学校の教師をするのも、原稿料で生きるのも、そのままではけっして正しいかどうかまだ決まっていない。これからわれわれが祈って、考えて決めなければならない、未定問題であるということだけ注意したい。
一、モデル問題もまだけっして決まってはいない。自分に寛であってモデルの欠点にのみ鋭いのがいけないのはいうまでもない。しかしモデルの欠点を如実に書いても、そのままで正しいか、どうか。自分の友が窃盗をしたからといって、窃盗をしたといって公衆にふれて歩くのは正しいか。モデルにされた人の心が傷つき、周囲の平和が乱れても事実ならば書いてもいいか。芸術はかかることを超越し得るのか。私は芸術と道徳との間に種々の矛盾を感じざるを得ない。私は文壇がかかる問題を十分に関心することを希望する。
一、ストライキングなことを平気で書くのはいけない。もしある作家が二人の人間を殺せばすむところで、三人の人間を殺させるならば、その作家は一人の人間を気まぐれであるいは不注意で殺したのにも似た罪である。殺人や強姦やすべて人の心をドキドキさせることは、最小限度で書くことを用意すべきである。もししいて書くならば、それを書かざるを得なかった弁解が作品のリズムのなかになくてはならない。突っ込むとか、鋭いとか、力強いとかいうのは、そんな外面的なところにあるのではない。自分一個の理想をいえば、自分は芸術の極致は万有の間に在るハーモニー――静けさを描くにあると思っている。恐ろしいこと、酷《むご》たらしいこと、恥ずかしいこと、悲しいことを持ちながら、しかも調和した善い世界を描き得る(無理の感じなく)に至るところにあると思っている。仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。近代人は不幸である。
一、今の文士は一般に著しく好色である。成熟した男子に性欲のあるのはやむをえないことである。しかしこの悪しき欲望を(これについては自分は「地上の男女」という題で詳しく書いた)みずからに許してはならない。純粋という徳は芸術家にはことに望ましい。女に対してずるいのが今の文士を他の何よりも卑しく見せる。下品に見せる。私は孤独な純潔なニイチェを思う。あの『貴族の家』に出るみずからを雲井のひばりに比べ、野の百合《ゆり》にたとえた詩人を思う。麻のなかに高居した、毅然《きぜん》たる威厳を持っている芸術家はたいがい純潔な人のようである。争われぬものである。女にずるいのは男の常ではある。しかしそれに身を任せるのと誘惑として戦うのとは大した相違である。できるだけいろいろな種類の女を、できるかぎりたくさん味わうことを自分の快楽の標準のようにしている人が今の文壇にはきっと信じられぬほど多いであろう。そういう人々に対しては私は「報い」ということを考えてみよといいたい。私がこういうことをいっても、取り合われないかもしれないが、私は「報い」というものは本当にあるのではないかと思っている。私は初めは不幸に打ち砕かれたような心で妹に「私はよくよく前世に悪いことをしたのだろうよ」と冗談にいった。ところがだんだんそれが真面目に思われるようになった。私は今ではほとんど信じているといってもいい。病院にいま十九になる少年が大やけどをして、泣き叫んでいる。私は今日も見舞いに行って、その少年の母親の顔を見ているとき、やはりそう思った。何かの報いと考えるのがいちばん本当らしい。少なくとも、これまで私の聴いたいかなる説明より私には信じやすい。(私はけっして思わせぶりでいっているのではない)。いま一人の娘を犯して舌鼓《したつづみ》を打っても、その快楽を償うてあまりある苦痛をいつか本当に受けなくてはならなかったらどうだろう。酷い酷い肉体的苦痛を報いられたらどうだろう。(注射を一本して貰うのでも、どれだけ嫌なものか肉体的苦痛に感じやすい今の文士は知り抜いてるはずである)。あるいは清い清い良心を与えられて、その女に赦しを乞うても、どうしても赦すといってくれなかったらどうだろう。いかなる形式かは知らないが、私は悪には必ず報いがあると信じている。私のかかる思想はある人々には児戯に類するであろう。しかし私はけっしてそうは思えなくなっている。かかる問題に触れるとき心はいちばん緊張する。真偽はいつか解るだろう。もし本当だったらなんとするとだけ今はいっておく。(いま私の心はセンチメンタルではない。理知的な心持ちでここを書く)
一、言葉で突っ込まずに生活で突っ込むがいい。それも歓楽の方へでなく十字架を負う方面へ突っ込んで見せてくれ。何人がいざとなった場合、本当に思いきった態度に出で得るかは論争では解らない。私は論争好きな人に、かえって学校を落第してまでは恋をせず、損をしてまでは芸術を作らず、十字架を負ってまでは伝道しないような人を発見する。
一、植物と動物との絶対的区別は付せられない。ゆえに野菜を食べるのは牛を食べるのと同じことであるという人がある。夫婦間の肉交を許すならば、遊女との肉交も処女との肉交も許されていいという人がある。蚤《のみ》を殺す以上、鳥を殺してもいいという人がある。すべて性質の差別を程度の差別に帰してひっきょう同一であるというのである。しかし一羽の小鳥を殺すとき、純な生娘を犯すとき実感として悪を意識するのである。悪でないと説明されても深い、純な心は静まらないだろう。同じ論理を用いるにも、なぜ鳥を殺すのは悪いゆえに蚤を殺すのも悪いといわないか。処女を犯すのは悪いゆえに夫婦の肉交も悪いといわないか。百羽の鳥を殺すのは九十九羽の鳥を殺すより一羽だけ悪い。同じことではない。殺される鳥からいえば、そのただの一羽が絶体絶命である。百万人の人民を助けるためには、十人の人間を犠牲にしてもいいという法はない。かかる思想は道徳でなくして経済である。もし地上に天国が建てらるるならば、けっしてかかる方法で建てられてはならない。
一、原稿は長く書いて、手紙は粗略に書く人はおそらく愛の深い人ではあるまい。それを気にしているのはいい。しかし当然と思ってはいけない。
一、面会日を厳守するのは最上の方法ではあるまい。釈迦やキリストはきっとそういう生活法を嫌ったであろう。それを気にしつつ、やむをえず(今日の器量では)決めているのはいい。それを当然と思ってる人は、おそらく人と人との接触、天国の空想に鈍い人だろう。釈迦やキリストの域には上れない人だろう。
一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い[#「意地の悪い」に傍点]文章を書く。みな心のやさしい人々なのに。そしてかかる文章を書くにいたる心理に同情しなくてはならないというのは不幸なことである。文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。これはその内に入ればおのずと祈りたくなる寺院や、人と和らぎたくなる墓地やあわれみの起こる病院や、厳粛になる実験室や、素直な、温かい心地になる家庭やに比べるとき、祝すべきではないと思う。
一、文士の告白好きなのが、魂の重々しさと、慎しみ深さの欠乏から生じていないことを希望する。私は初対面のときすぐに恋の話を持ち出すような人からいい印象を受けることはできない。しかもかかる人があまりに多くなった(しかしそうしても嫌な感じの出ない人があれば私はその人を心からほめる)。「その頃私は恋をしていたので」というような、まるで用達をしていたのか、床屋に行っていたのかを語るような恋物語の仕方をする人を私は嫌う。私たちの深い、大切な記憶は心の奥に慎しみ深く守られねばならぬ。深い深い傷や、不幸や、魂の夢や、空想や、願いや、かかる高貴なるものを軽々しく聞こうとする人も、語る人も浅人である。本当につつましい人が門をたたいたとき、あるいは心をこめてかく芸術の内でのみ語らるべきである。
ああ私はみずから揣《はか》らずして高い高い標準を立てたような気がする。しかし私はけっしていたずらに高い理想を立して非難の口実を探したのではない。私たちはたとい実行できなくても高い高いところに向かって大願を立てたい。そしてその大願の前に自分を鞭打ちたい。私の真意を打ち明けて語れば「どんなことでもするがいい。どんなことでも赦されるのだから、しかしどんなことでも悪いと思われるかぎりは悪いと思って恥じねばならぬ。自分のつくった悪が赦されるために」というにある。文壇には私の非難の全然当たらない人々もあろう。しかし私は信じている。それらの人々は自分で文壇を非難したく思ってるような人々だろう。そして私の言説にあまり気を悪くはしまいと。まだ書き足りないが、後日に譲る。私のこの一文には深い感情と動機がある。これを幼稚だと無下《むげ》に斥くる人は、浅い心の持主である。書き終わって、荒々しい書き方をしたような気がして、何だか心が静かでない。
[#地から2字上げ](一九一八・二・一)
[#改ページ]
人と人との従属
現代は、人間が自己の生活に対して、最も意識的になった時代である。人がおのれの幸福についておもんぱかるに熱心なることは今の時代ほど著しいときはあるまい。人はこの地上を楽しく豊かならしめ、おのれの生活を快適ならしむるためには、種々の配慮を惜しまぬように見える。しこうしてその目的は遂げられたであろうか。この世は楽しく住み心地よくなったであろうか。ある者は互いに憎みあっている。ある者は互いに剣を抜いている。ある者は他より奪わんとし、ある者は求むる者にも拒んでいる。ある者は自己を固く塞《とざ》して
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