与える。「ある世界観が厭世観であることは、その世界観の矛盾を示すものである」という言葉に一種の根拠がありはせぬか。いうまでもなく私は世の常の楽天観に与《くみ》するものではない。私は厭世を越えたるいなむしろ厭世そのものの中に見いだされたる楽天観をいうのである。悲しみと苦しみとをもって、織りなされたる悦《よろこ》びをいうのである。そもそも世界観において、楽天だとか厭世だとかいうことは重きをおかるべきでない。それは世界の相《すがた》をできるだけ精細に、如実に anschauen すればよい。その観察が「真」に徹すれば徹するほど私は楽天的な境地が開拓されると思う。私はフローベルやツルゲネフの思想においても、楽天的傾向を見いだすものである。ショウペンハウエルの哲学すら単に厭世観とは思われない。彼の解脱の方法としての愛と認識とはいっそう重要に注意さるべきものである。世界の苦痛と悲哀と寂寞とを徹底的に認識するは楽天に転向する第一歩である。そこに生命の自己認識がもたらす解脱の道がありはせぬか。認識の純なるものは躬《み》をもって知るの体験でなければならない。さらに徹しては愛とならねばならない。愛は最深なる認識作用である。白墨の完全なる表象はただちに黒板の文字となるように、最純なる表象はただちに意志である。私は愛と認識との解脱的傾向を含む特殊なる心の働きなることを認め、しこうしてこれによりて暗示さるる精神生活の自由の境地に注意するものである。オイケンは「人間は自然に隷属す。されどそを知るがゆえに自由なり」といい、トルストイは“Where Love is, God is.”といった。私の思想はもとよりいまだ熟していないが、生物の本能と隷属を脱して神への転向を企つる意識的生活は愛と認識とをもって始めらるるであろう。
 私はこれまで本能の中に自由を見いださんとする自然主義をもって生活の根本方針を建て、しこうしてそを最も確実なる生活法と思っていた。私の恋愛の崩れたのはその誤謬からであった。私の恋愛は甘きもの美しきものに対する憧憬ではなく「確実なもの」を捉えんとする要求であった。確実なる生活の根本基礎を女の本能的な愛の中に据えつけようとした。それが私の恋愛のヴェーゼンであった。女の美しいこと賢いことは初めから希《のぞ》まなかった。ただ一点愛において二人は確実に結合していると信じた。しかしながら本能的な愛は私の期待したごとくけっして鞏固《きょうこ》ではなかった。女の恋愛には精神生活の根底がなかったために、その崩れ方はじつに脆《もろ》かった。私は一種の錯誤に陥っていた。私の尨大《ぼうだい》なる形而上学的の意識生活を小娘の本能的な愛の上に据えつけた。それが瓦壊の源であった。
 本能的の愛は一時は炭火のごとく灼熱しても愛して倦《う》まぬ持久性がない。覚悟と努力との上に建たざるがゆえに外敵に対する抵抗力が乏しい。敵とは何か、他の本能である。精神生活より発する愛は諸種の本能を一度思考の対象として、それを統一した上に発したる一種の形而上学的努力の感情である。本能的な愛の熱烈は他の本能を一時蔽うている状態である。ゆえに他のこれと駢列《へんれつ》する本能をもってアッタックせらるるとき崩れてしまうのである。私は真の生活が精神生活でなければならないことを痛感する。いやしくも私らが生活につきて意識的になるとき、すなわち真の意味において生活するようになったとき、その生活は理想的要素を含める精神生活(Geistesleben)でなければならない。真の生活は自然主義の生活にあらずして理想的、著しくいわば技巧的、人工的生活である。それが最も個性的特殊性を含める生活である。もとより本能や感覚を材料として取りいれねばならぬ。しかしこれらの材料を排列し、擯斥《ひんせき》し、牽引し、あるいは種々の立場より覗くことを得るだけの精神的努力を含める生活をいうのである。たとえば性欲というような本能は誰でも持ってる共通的なものである。その性欲をいかに取りいれるか、排斥するか、包容するか、というようなところに個性的特質ある生活が見いだされねばならない。かくて自己は広き範囲にわたりて、多くの事実を多くの立場より見得るに至るであろう。生活に摂《と》りいれらるる data は豊富になるであろう。しこうして後これらのものを包摂して、単純化が行なわれたるとき真に確実にして力ある生活が生み出されるのである。人間の生活が熱烈なる光輝を放つときは単純化が行なわれたるときである。しかしながらその単純は複雑と多様とを統一したものであって、内容の貧寒を意味する簡単であってはならない。真の単純化はその内に無数の要素を含める体系的一であって数的一ではない。本能生活の熱烈は後者に属するものであって、その一本調子は単純化ではない。他の要素の見えない盲目的生活である。最も befangen されたる、束縛されたる、隷属の生活である。かかる生活よりは真に堅忍にして持久なる底深き力は出ないであろう。火山の爆発のような一時的な暴力は出るかもしれない。しかしながら高山の山腹を少しずつ見えない速度で、しかし支うべからざる圧力で、収効果的《エフェクチブ》に滑《すべ》り落ちる氷河のような力は生じないであろう。動くものの全体としての静けさの感じられるような力が真に偉大なる力である。私はかかる力に憧《あこが》るる。かかる力は統一されたる要素の豊富なくしては生じない。私らは熱烈とか驀直とかいう文字に欺かれてはならない。貧寒な data で熱烈になるよりは、豊富な data でまとまらずに、淋しく生活をする者が強い人である。真の単純化は至難のことである。さればこそ精神生活の向上と精進とはかぎりなき苦しき努力となるのである。ノラは家出をして自己の道を拓《ひら》こうとした。またある妻は躊躇して家に止まった。それゆえにノラの方が強い女だという人があるならば浅薄である。強いとか弱いとかいうことはしかく外的に決せらるるものではない。家に残った妻はノラよりも、もっと多くのことを考えたかもしれない。夫と自分との関係、子供と自分との関係、その間に見いだされる自己が家出の足を止めたかもしれない。ノラの方が自己に忠実であるとは必ずしもいえない。多くのことを心に収めて考えることのできる人は強いといわねばならぬ。徹底するのは真理がするのである。行為が外的にすばらしい[#「すばらしい」に傍点]のをいうのではない。真理が徹したために、行為が目立たないものに止まることはある。かくて人目に立たず、オブスキュアに、しかも内面の自己の徹底にみずから満足して生きてる人があるならば、私はその人を打ち仰いで尊敬する。筆を持つものは特にここを一考せねばならない。私はみずから気付かずにこの表現の Fallacy に陥っていたように思われる。自己の表現と発情とに覚えず自己を捲き込んでいたような傾きがある。それがために私の思索が混雑し、単純化が精緻を欠き、統一の外に取り残された data があった。たとえば性欲とキリスト教的愛とが混淆《こんこう》し、彼女以外の人に内在する私の自己が取り除かれたりしていた。その部分から私の精神生活は崩れていった。しかし思えばそれはイデアリストの同情すべき弱点である。しかもその弱点が多大な犠牲となったときにそれは人格的な涙に価する。けだしイデアリストにとっては実生活があまりに貧弱なるがゆえに、自己の内面に宿る偉大なる感情を盛る材料がない。それゆえに木の片、石の塊をも捕えて、これに理想を盛りあげようとする偶像崇拝が成立する。それは滑稽《こっけい》な悲劇をもって終わるに決まっている。私はこのトラギコメディを抱いて涙を垂れる。私は表現の権威につきては十分注意したつもりであった。表現の価値を批判しつつ、みずからも言い女の言をも聞いた気であった。しかしなんといっても私が魯《おろ》かにして稚《おさな》かったに相違ない。「あなたはそう思います。けれどもあなたはそうしません」といったショウの冷譏《れいき》の前に私の幼稚を赤面するほかはない。思えば「異性の内に自己を見いださんとする心」はそら恐ろしき表現にみちている。「女に死を肯定せしめた」と誇った私は、別るるに臨んでの私の健康の祈りさえも得ることはできなかった。冷淡ないやな手紙が一片私の手に残った。そして癒えざる病がともに残った。
 そればかりではない。私の悩みは私が自己に敗れんとする恐怖である。最後の彼女の手紙を見た私の心に燃え立ったものは獣のごとき憎悪と讎敵《しゅうてき》のごとき怨恨とであった。これは明らかに自己を破るものである。かかる自殺的感情に打ち克たれては私は最後の立場を失うものである。私は自己を救うためにこの憎悪を克服せねばならなかった。それには六種震動ともいうべき心の転回的努力を要した。そして今では彼女を憐《あわ》れみ許す穏やかな心になっている。いな、前よりもいっそう深きリファインされたキリスト教的愛で彼女を包み、心より彼女の幸福を祷《いの》っている。
 考えてみれば彼女は憐れむべき女である。私を欺いたのも悪意からではなく稚きものの犯しやすき表現の罪に陥ったものであろう。まだ思想の定まらない彼女が私の尨大な、不完全な、私の精神生活の重荷に堪えなかったのも無理はない。いわんや肺病の恋人と肺病の母とを持ち、母の喀血を目睹《もくと》した彼女の胸中を察すればふびんに堪えない。私はひたすらに彼女の今後における人間としての成功のおぼつかないのを憂慮する。いまに至りては彼女の幸福を傷つけずしては私のそれの要求の実現できない永い悲哀が残るばかりである。恋い慕う心のみたされない苦しさに悶えるばかりである。
 私は初めから小説などに描かれた恋愛に同感できるのはほとんど無かった。『死の勝利』のジョルジオにも、『煤烟』の要吉にも、『烟』のリトヒノフにも同感できなかった。ジョルジオの恋は性愛の最もエゴイスチックなものである。また私は恋を失うて女を罵《ののし》り、女性全体に一種の反抗的気分を抱くようなことはしたくない。かくのごときことは単に深き失恋の悲哀を味わいたるものにはできることではない。またリトヒノフのごとく自己の恋をも烟のごとくずるずるに消してしまいたくない。私は自己の恋愛を熟視し、自己の真相に徹して、愛をして人格的に推移するところに赴《おもむ》かせたい。人格の連続性を失いたくない。恋を超越した道、冷笑した道は私の今後歩むべき道ではない。恋を失うたものの、恋の内より発する道こそ私の歩むべき公道である。それはいかに荒れた色彩に乏しいものにしても私が血と涙とをもって拓《ひら》きし大切な道である。私をどこか私に適した世界に導いてくれるであろう。それがいかなる世界であるか、いま非常なる複雑と多様との中に陥れる私には予測できない。しかし私は私の恋愛を批判して、恋愛の内より道を開いて出たいと思う。私は何よりも私の認識が散漫にして雑駁なのに危惧の念に打たれる。このたびの経験より考うればどれほど誤謬多き見方をしているかしれないからである。私がもっと確実に、深刻にものをみることができるならばもっと安全な善い生活ができるであろう。私はもっとしっかり[#「しっかり」に傍点]した歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。分析的にという意味ではない、材料の蒐集を豊富にし、その関係の観察を精緻にすることを指すのである。次に私は愛の種類について考えねばならない。私は本能的な愛とキリスト教的な愛とを混雑させていた。私は前者より後者に推移せねばならぬ。これが高価なる経験が私に与えた最も重大なる成果である。本能的愛は愛の純真なるものではない。囚縛されたるエゴイスチックなものである。真の愛は『善の研究』の著者が説くごとき認識的キリスト教的愛である。意識的努力的なる愛である。生物学的なる本能にあらずして、人間の創造的なる産物である。性愛も母の愛も認識する心の働きとは異なれる盲目的なるものである。
 私の恋を破った最大の敵は
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