ニいう。けれども私は君を放したくはない。君が離れたがればますます私の側に置いて私の温かい息で君の荒んだ胸をじんわりと包んでやりたい。君よ、たとい今私と離るるとも君が傷ついたならまた帰って来たまえ。潤える瞳と温かな掌とは君を容れるに吝《やぶさか》ではないであろう。
[#ここで字下げ終わり]
こんなことも書いてよこした。また私が法科に転じて荒んだ方面へばかり走るのをいましめて、
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君よ。星の寒いこの頃の夜更けに、試みに水銀を手の腹に盛ってみたまえ。底冷たさは伝わって君の魂はぶるぶると顫えるであろう。このとき何ものかの偉大なる力が君に思索を迫らずにはおくまい。
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というようなことも書いてよこした。こんな誠実な可憐な友を捨てることはじつに泣き出したいほど苦しかったのだ。友と別れた私は真に孤独であった。私の胸のなかを荒んだ灰色の影ばかりが去来した。孤独の淋しみのなかに座を占めて、静かに物象を眺め、自然を印象するほどの余裕もなかった。孤独そのものの色さえ不安な、動揺した、切迫したものであった。それでも初めのほどは私の内部生活は荒みながらも緊張していた。凄蒼《せいそう》たる色を帯びながらも生命は盛んに燃焼していた。炭火のように赤かった。
けれどもしばらくして私はまた惑い始めた。私の生活法がはたしてよきものであろうかと疑い始めた。全体私は蔽うべくもないロマンチシストである。私は幼いときからあたたかな愛に包まれて大きくなった。私は小さいときからものの嬉しさ哀《かな》しさも早く解《わか》り、涙|脆《もろ》かった。一度も友達と争ったことなどはなかった。戦闘的態度のエゴイズムなどとても私の本性の柄に合わないのだ。それだのに何ゆえに私はエゴイストでなければならないのだろうか。生命は知情意の統合されたる全一なるものでなければならない。私が友を愛してるということは動かしがたき事実ではないか。心理的事実としては知識も感情も同一であって、その間に優劣はないはずである。それだのに私は何ゆえに知性のみに従って、情意の確かなる事実をなみせなければならないか。それはかなり吟味を要するではないか。しかしながら私が友の生命を実在的に肯定することができないというのもたしかなる事実である。してみれば結局私の生命は有機化されていないということに帰着せねばならない。私の生命は全一ではないのだ。分裂してるのだ。知識と情意とは相背いてる。私の生命には裂罅《れっか》がある。生々《なまなま》とした割れ目がある。その傷口を眺めながらどうすることもできないのだ。この矛盾せる事実を一個の生命のなかに対立せしめてることがメタフィジカルな私にとって、どんなに切実な苦痛であったろう。
私は実際苦悶した。私はどうして生きていいか解らなくなった。ただ腑の抜けた蛙のように茫然として生きてるばかりだった。私の内部動乱は私を学校などへ行かせなかった。私はぼんやりしてはよく郊外へ出た。そして足に任せてただむやみに歩いては帰った。それがいちばん生きやすい方法であった。もとより勉強も何もできなかった。
ある日、私はあてなきさまよいの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買ってきた。その著者の名は私には全く未知であったけれど、その著書の名は妙に私を惹きつける力があった。
それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
見よ!
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個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来た。
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とありありと鮮やかに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することができた※[#疑問符感嘆符、1−8−77] この数文字が私の網膜に焦げつくほどに強く映った。
私は心臓の鼓動が止まるかと思った。私は喜びでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸がいっぱいになって、それから先きがどうしても読めなかった。私は書物を閉じて机の前にじっと坐っていた。涙がひとりでに頬を伝わった。
私は本をふところに入れて寮を出た。珍しく風の落ちた静かな晩方であった。私はなんともいえない一種の気持ちを守りながら、街から街を歩き回った。その夜|蝋燭《ろうそく》を燈《とも》して私はこの驚くべき書物を読んだ。電光のような早さで一度読んだ。何だかむつかしくてよく解らなかったけれど、その深味のある独創的な、直観的な思想に私は魅せられてしまった。その認識論は私の思想を根底より覆すに違いない。そして私を新しい明るいフィールドに導くに相違ないと思った。このとき私はものしずかなる形而上学的空気につつまれて、柔らかく溶けゆく私自身を感じた。私はただちに友に手紙を出して、私はまた哲学に帰った。私と君とは新しき友情の抱擁に土を噛んで号泣できるかもしれないと言ってやった。友は電報を打ってすぐ来いといってよこした。私は万事を放擲《ほうてき》してO市の友に抱かれに行った。
操山の麓にひろがる静かな田圃に向かった小さな家に私たちの冬ごもりの仕度ができた。私はこの家で『善の研究』を熟読した。この書物は私の内部生活にとって天変地異であった。この書物は私の認識論を根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のような形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸い込まれるように包摂されてしまった。
私らは進化論のように時間的に空間的に区別せられたる人間と人間との間に生の根本動向から愛を導き出すことはとうてい不可能である。ここから出発するならば対人関係は詮ずるところ利己主義に終わるほかはない。しかしながら私らは他のもっと深い内面的な生命の源泉より愛を汲み出すことができるのである。ただちに愛の本質に触れることができるのである。愛は生命の根本的なる実在的なる要求である。その源を遠く実在の原始より発する、生命の最も深くして切実なる要求である。
しからばその愛の源流は何であるか。それは認識である。認識を透して、高められたる愛こそ生命のまことの力であり、熱であり、光である。
私は自己の個人意識を最も根本的なる絶対の実在として疑わなかった。自己がまず存在してもろもろの経験はその後に生ずるものと思っていた。しかしながらこの認識論は全く誤謬であった。私のいっさいの惑乱と苦悶とはその病根をこの誤謬のなかに宿していたのであった。実在の最も原始的なる状態は個人意識ではない。それは独立自全なる一つの自然現象である。われとか他とかいうような意識のないただ一つのザインである。ただ一つの現実である。ただ一つの光景である。純一無雑なる経験の自発自展である。主観でもない客観でもないただ一の絶対である。個人意識というものは、この実在の原始の状態より分化して生じたものであるのみならず、その存在の必須の要件としてこれに対立する他我の存在を予想している。客観なくして主観のみ存在することはない。
それゆえに個人意識は生命の根本的なるものではない。その存在の方式は生命の原始より遠ざかりたるものである。第二義的なる不自然なる存在である。それ自身には独立自全に存在することのできないものである。これは個人意識が初めより備えたる欠陥である。愛はこの欠陥より生ずる個人意識の要求であり、飢渇である。愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。欠陥ある個人意識が独立自全なる真生命に帰一せんがために、おのれに対立する他我を呼び求むる心である。人格と人格と抱擁せんとする心である。生命と生命とが融着して自他の区別を消磨しつくし第三絶対者において生きんとする心である。
それゆえに愛と認識とは別種の精神作用ではない。認識の究極の目的はただちに愛の最終の目的である。私らは愛するがためには知らねばならず、知るがためには愛しなければならない。われらはひっきょう同一律の外に出ることはできない。花のみよく花の心を知る。花の真相を知る植物学者はみずから花であらねばならない。すなわち自己を花に移入して花と一致しなければならない。この自他合一の心こそ愛である。
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愛は実在の本体を捕捉する力である。ものの最も深かき知識である。分析推論の知識はものの表面的知識であつて実在そのものを掴《つか》むことはできない。ただ愛によりてのみこれをよくすることができる。愛とは知の極点である。(善の研究――四の五)
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かくのごとき認識的の愛は生命が自己を支えんための最も重々しき努力でなければならない。個人意識がかりそめの存在を去って確実なる、原始なる、自然なる、永遠なる真生命につかんとする最も厳かなる宗教的要求である。この意味において愛はそれみずから宗教的である。かくてこそ愛は生命の内部的なる熱と力と光との源泉たることを得るのである。
私はO市の冬ごもりの間に思想を一変してしまった。我欲な戦闘的な蕭殺とした私の心の緊張はやわらかに弛《ゆる》み、心の小溝をさらさらとなつかしき愛の流れるのを感じた。私はその穏やかな嵐の後の凪《なぎ》のような心で春を待った。春が来た。私は再び上京した。
けれどもこの穏やかな安易な心の状態は長くはつづかなかった。私は心の底にただならぬ動揺を感じだした。それはいうべからざる不安な気分であった。心が中心点を失うて右往左往するようであった。意識の座が定まらない。魂が鎌首を擡げて何ものかを呼び求むるようでもあった。私は恐ろしい寂寥に襲われた。とても独りでは堪えられないような存在の寒さと危うさにおののかずにはいられなかった。私は何も手につかなかった。ただこの意識中心の推移するのかと思うような心の動乱と寂寥と憧憬とを持てあましつつ生きていった。
私は狂うような手紙をO市の友に幾度出したかもしれない。淋しさと怖ろしさとに迫られては筆をとった。霖雨のじめじめしい六月が来た。その万物を糜爛《びらん》せしめるような陰鬱な雨は今日も今日もと降りつづいた。湿めっぽいうっとうしい底温かいような気候が私にいらだたせるような不安を圧迫した。私はこの熱を含んだ、陰気くさく淡曇った天の下に、蒸し暑い空気のなかに、手のつけようのない不安な気持ちに脅かされながら生きねばならなかった。
試験準備で忙《せ》わしい友達の間に何も手につかないでぼんやりしてるのが辛いので、私は筑波山へ旅に出たことがあった。私は淋しいもの哀しい旅をした。筑波山はまっ白い霧に抱かれて黙っていた。私はただ独り山道をとぼとぼ登りながら、自然は冷淡なものだとつくづく思った。この淋しい自己を託さんとする自然は私には何の関わりもないもののように冷然として静まり返っていた。私はとりつくしまもなかった。私がよしやそこに立ってる大樹の肌に抱きついて叫んだとて、雨に濡れたる黒土に噛みついて号泣したってどうともなりはしないではないか。
私は抱きつく魂がなくてはかなわないと思った。私の生命にすぐに燃えつく他の生命の※[#「火+稻のつくり」、第4水準2−79−88]がなくては堪えられないと思った。魂と魂と抱擁し、接吻し、嘘唏《きょき》し、号泣したかった。その抱擁の中に自己のいのちが見いだしたかった。
私は山頂の茶店の古ぼけた登山記念帖に次のようなことをなぐり書きに書きのこしてひとり淋しく山を下りた。
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何者かを求めて山に来りき。されど求むるところのものは自然にてはあらざりき、人なりき、愛なりき。たとい超越的の神ありたればとてわれにおいて何かせん。ああ人格的、内在的なる神はなきか。わが霊肉を併せて抱擁する女はなきか。
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山から帰ってから、私の心はいっそう淋しくなった。そしていっそう切迫してきた。しかし私は私の心の不安と動揺とにほぼ明らかなる形をあたえることがで
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