い人といえども、必ず知っておかなければならない程度の、認識論の最も本質的に重要なる部分をことごとく含んでいるからである。そして自分が常に抱いている、中学の課程において、自然科学を教うる際に、認識論ことに唯心論的な認識論の入門をあわせて教えなければならないという意見の実施の代用として役立つことを信じるからである。実際自分は中学の誤まれる教授法によって授けられたる自然科学の知識の、実在の説明としての不当の――その正しき限界と範囲以上の――要求から解放せらるるまでに、どんなに不必要な、しかもじつに惨憺《さんたん》たる苦悩を経験したことだろう。自分はそのために青春の精力の半ば以上を費《ついや》したといってもいい。この事たる、ただ中学において、自然科学の教師が、その知識が実在の説明として、ある一つの考え方であって、唯一のものではなく、他に多くのそしてその中にはたとえば唯心論のごとく、全然反対の考え方もあることを付加するだけの用意を持っていさえしたならば、免るる、少なくとも半減することができたのである。そしておそらく私のみでなく、ほとんどすべての青年が同じ苦悩を経験するであろうと思わないではいられない。その意味において自分のこの稚き一文はかなりな効果ある役目を果たすであろうと思っている。またこの書にはかなりしばしば同一思想の反復あるいは前後矛盾せる文章を含んでいる。これはすなわち自分が同一の問題を繰り返し、くりかえし種々の立場より眺め、考え、究めんとせるためおよび思索と体験の進むに従って、前には否定したものをも摂《と》り容《い》れ、あるいは前に肯定したものをも、否定するに至ったためである。思想が必然的連絡を保って成長してゆく過程を痕《あと》づけるものとして、かかる反復と矛盾とは、避くべからざるものであるのみならずまたその思索と体験の真摯なることを証するものであると思う。
 この書は青年としてまさに考うべき重要なる問題をことごとく含んでいるといってもいい。すなわち「善とは何ぞや」、「真理とは何ぞや」、「友情とは何ぞや」、「恋愛とは何ぞや」、「性欲とは何ぞや」、「信仰とは何ぞや」等の問題を、たといけっして解決し得てはいないまでも、これらに関する最も本質的な|考え方《デンケンスアルト》を示している。しこうして考え方はある意味において解決よりも重要なのである。一般に自分はこの書の学術的部分には恃みを持っていない。ことに「隣人としての愛」より後は自分の興味はしだいに哲学より離れ、したがって表現法も意識的に学術的用語を避けて、直接に「こころ」に訴えるごときものを選ぶに至った。自分がこの書において最も恃みをおいている点は、人間がまさに人間として考うべき種々の重要なる問題を提出しそれについての最も本質的なる考え方を示し、かつ人間の「こころ」の種々なるムードについて、深く、遠く、かつ懐しく語り得ていると信じる点にある。それらの心情《ゲミュートチ》の|優しさ《エルリッヒカイト》において、種々の尊き「徳」について語り得ていると信じる点にある。自分はこの書が読む人の心を善良に、素直に、誠実にかつ潤いに富めるものとならしむるに少しでも役立つことを祈るものである。一個の人間がいかに生きているかは、善悪ともに、他の共に生けるものの指針となる。その意味においてこの書は、その青春の危険多き航路を終わりたる水夫が、後れて来たる友船へ示す合図である。自分は彼らの舟行の安らかならんことを心より願う。しこうして自分もまた愛と認識との指す方向に航路を定め、長き舟行の後ついに彼岸に達せんことを念願するものである。がそれは恵みの導きなくしては遂げらるるとは思えない。願わくば造りたるものの恵み、自分とおよび、自分とともに造られたるものの上にゆたかならんことを。
[#地から2字上げ](一九二一・一・一八朝)
[#改ページ]

 憧憬
    ――三之助の手紙――

 哲学者は淋しい甲蟲《かぶとむし》である。
 故ゼームス博士はこうおっしゃった。心憎くもいじらしき言葉ではないか。思えば博士は昨年の夏、チョコルアの別荘で忽然として長逝せられたのであった。博士の歩みたまいし寂しき路を辿《たど》り行かんとするわが友よ、私はこの一句を口吟《くちずさ》むとき、髯《ひげ》の疎《まば》らな目の穏やかな博士の顔がまざまざと見え、たとえば明るい――といっても月の光で微《ほの》白い園で、色を秘した黒い花の幽《かす》かなる香を嗅《か》ぎながら、無量の哀調を聞くごとくそぞろに涙ぐまるるのである。しこうしてこうして哀愁に包まれたとき私が常になすがごとくに今日も君に書く気になったのだ。
 その後生活状態には何の異なりも無い。ただ心だけは常に浮動している。なんのことはない運動中枢を失った蛙のごとき有様だ。人生の愛着者《あいちゃくしゃ》にはなりたくてたまらぬのだが、それには欠くべからざる根本信念がこの幾年目を皿のごとくにして探し回ってるのにまだ捕捉できない。といって冷たい人生の傍観者になんでなれよう。この境に彷徨《ほうこう》する私の胸にはやるせのない不安と寂愁とが絶えず襲うてくる。前者は白幕に映ずる幻燈絵の消えやすきに感ずるおぼつかなさであり、後者は痲痺《まひ》せし掌の握れど握れど手応《てごた》え無きに覚ゆる淋しさである。ときどきこんな声が大なる権威を帯びて響きくることがある。

「はかない人知で何を解こうとしてるのだ。幾年かかれば解けるのだ。それを解決してからがおまえの意義ある生活ならばそれは危いものだ。初めから意義ある生活を打算してかからぬ方がましかもしれぬよ。疑惑の雲の中へ頭を突き込んでやがては雲の一部分に消え化してしまうのであろう」

 一度は恐れ戦《おのの》いてこの声にひれ伏した。が倨傲《きょごう》な心はぬっと頭を擡《もた》げる。
「いくら苦しくても、意義が不明でも、雲の中へ消え込んでも、その原因は私の意志どおりをやってきたからだ。世の中に思いどおりをやるほど好いことがあるものか。それに私はある女(真理)に恋慕してるのだ。なるほど対手《あいて》の顔はまだ見ない。しかし彼女はきっと美しい崇《とうと》い顔を持ってるに違いない。まだ見ぬ恋の楽しさを君は知るまい。私の恋が片思いに終わるとは断言できまい。今に彼女は必ず私に靡《なび》くよ。白い雲の上で私を呼んでいる彼女の優しい上品な声が聞こえるような気がする。考えてもみたまえ。互いに胸を打ち明けてからもおもしろかろうが、打ち明けぬうちも捨てがたいではないか。私はいかにしても思い切る気はない」

 君、僕はこんなことを考えて沮喪する心を励ましているのだよ。いつもの話だがどうもわが校には話せる奴《やつ》がいない。O市の天地において僕は孤独の地位に立ってる。から騒ぎ騒ぐ野次馬、安価なる信仰家、単純なる心の尊敬すべき凡骨、神経の鋭敏と官能のデリカシイとに鼻|蠢《うごめ》かす歯の浮くような文芸家はいるが、人生に対する透徹なる批判と、纏綿《てんめん》たる執着と、真摯《しんし》なる態度とを持して真剣に人生の愛着者たらんと欲する人は無い。例の瘰癧《るいれき》のO君とはただ文学上において話せるのみだ。彼は根本的思索には心が向かっていない。彼は考えずしてただ味わおうとのみ努《つと》めている。彼の唯一の根底は生の刺激すなわち歓楽である。歓楽からただちに人生に入った彼の内的生活の過程を私は納得することができない。絹糸のごとき繊細なる感受性は持ちながら、知識は荒繩のごとく粗笨な一部の文芸家によって、哲学者の神聖なる努力と豊富なる功績とがいたずらに人生の傍観者なる悪名の裡《うち》に葬り去られんとするのは憤慨すべき事実である。われら哲学の学徒より見れば、いまだかつて哲学者ほど人生に対して親切、熱烈、誠実なる者を知らぬのである。彼はライフを熱愛するのあまり、これを抽象して常に眼前にぶら下げている。あたかも芸術家が自己の作品に対するごとき態度をもって哲学者は自己のライフに面している。かのロダンの大理石塊を前にしてまさに鑿《のみ》を揮《ふる》わんとして息を屏《と》め目を凝らすがごとくに、ベルグソンは与えられたる「人性」を最高の傑作たらしめんがためにじっとライフを見つめているのである。われらは彼の蒼白き頬と広き額と結べる唇とに纏綿たる執着と、深奥なる知性と、強烈なる意欲の影の漂えるのを看過してはならない。フィロソファーとは愛知者という語義だという。しかし私は愛生者をこそ哲学者と呼びたい。
 それから君はややもすれば単純なる心の持主、いわゆる善人をば軽蔑せんとする傾向があるがそれは悪いよ。考えてもみたまえ。もともとわれらは真正の善人――哲学的善人たらんがために哲学に志したのではないか。われらが冷たい思索の世界に、こうして凡俗の知らぬ苦労を嘗《な》めているのは「真」のためでなく、「美」のためでなく、じつに「善」のためである。「実在」に対する懐疑よりもはるかに疾《はや》く、はるかに切実に「善」に対する懐疑に陥ったのであった。迷い惑うるわれわれの前にいかに荘麗に、崇高に、厳然として哲学の門は聳《そび》えたりしよ。われらは血眼《ちまなこ》になって傍目も振らず、まっしぐらに突入したのだ。
 だからわが友よ、われらは彼ら善人を愛し、彼らの持てる純なる情と勇ましき力とをもって守るに価する真の善の宝玉を発見せねばならぬ。われら神聖なる哲学の徒は彼らの抱ける善の玉のいかに不純不透明にして雑駁《ざっぱく》なる混淆物《こんこうぶつ》を含みおるかを示して、雨に濡れたる艶消玉《つやけしだま》の月に輝く美しさを探ることを教えねばならない。濁水|滔々《とうとう》たる黄河の流れを貪り汲まんとする彼らをして、ローマの街にありという清洌なる噴泉を掬《く》んで渇を潤すことを知らしめねばならない。
 思えば今を距《さ》る二千六百年の昔、「わが」哲学がミレートスの揺籃を出《い》でてから、浮世の嵐は常にこの尊き学問につれなかった。しこうして今日もまたつれないのである。故国を追われて旅の空に眼鏡を磨きつつ思索に耽ったスピノーザの敬虔なる心の尊さ、フィロソフィック・クールネスの床《ゆか》しさ! 僕らはあくまでも尊き哲学者になろうではないか。私はH氏のものものしき惑溺《わくでき》呼《よば》わりに憎悪を抱き、K氏の耽美主義に反感を起こし、M博士の遊びの気分に溜息を洩《も》らす。M博士は私の離れじとばかり握った袂《たもと》を振り切って去っておしまいなすった。私はかの即興詩人時代の情趣|濃《こまや》かなM博士がなつかしい。かのハルトマンの哲学を抱いて帰朝なすった頃の博士が慕わしい。思えば独歩の夭折《ようせつ》は私らにとって大きな損失であった。
 底冷たい秋の日影がぱっと障子に染めたかと思うとじきとまた暗くなる。鋭い、断《き》れ断《ぎ》れな百舌鳥《もず》の声が背戸口で喧《かしま》しい。しみじみと秋の気がする。ああ可憐なる君よ、(可憐という字を許せ)淋しき思索の路を二人肩を並べて勇ましく辿《たど》ろうではないか。行方《ゆくえ》も知れぬ遠い旅路に泣き出しそうになったらゼームス博士を思い出そう。哲学者は淋しい甲蟲である! お互いに真面目に考えようね。

 お手紙拝見。お互いに青春二十一歳になったわけだね。でも苦労したせいか僕の方が兄のような気がしてならない。昨年の正月の艶々しい恋物語を知ってるだけに、冷たい、暗い、汚い寮で侘《わび》しく新年を迎えた君がいっそうのこといとしい。君は私と違って花やかな家庭に育ったんだからね。T君が君をロマンチックだって冷笑したって。かまうものか。彼の刹那主義こそ危いものだ。なぜというに、彼の思想には中心点が無いからだ。彼の「灰色生活」は虚偽である。みたまえ。彼の荒《すさ》んだ生活には、ああした生活に必然伴うべきはずの深刻沈痛の調子は毫も出ていないではないか。さて僕だ。例によって帰省したものの、ご存じのとおりの家庭ゆえあまりおもしろくない。でもさすがに正月だ。門松しめ飾り、松の内の八百屋町をぱったり人通りが杜絶《とだ》えて、牡丹雪
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