ノ『善の研究』の名をもってしたのはこの問題が思索の中心であり、根本であると考えたからである。
道徳的意識は当然意志の自由という観念を予想してる。これを認めないならば道徳は所詮迷妄にすぎない。ある動機よりある行為が器械的必然に決定せらるるならば、われらはその行為に対して責任の観念を有することは不可能だからである。氏はまず意志の自由を承認しかつその範囲および意義をきわめて徹底的に研究している。氏は意志の自由の範囲を限定して、観念成立の先在的法則の範囲において、しかも観念結合に二個以上の道があり、これらの結合の強度が強迫的ならざる場合においてのみ全然選択の自由を有することを明らかにした。さてしからば自由の意義|如何《いかん》。
自由には二種の意義がある。一はなんらの原因も理由もなく、偶然に動機を決定する随意という意味の自由である。他は自己の本然の性質に則《のっと》り、内心の最深の動機によりて必然的に動く内面的必然という意味の自由である。もし前者のごとき意味において自由を主張するならば、それは全く迷妄であるのみならず、かかる場合にはわれらはその行為に対して自由の感情を意識せずしてかえって強
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