あ」兄の声はしめやかであった。
「独歩がいったごとくに宇宙の事象に驚けるといいなあ」と兄がいった。私は腹のなかで頷《うなず》いてる。そして、
「現象の裡には始終物|自爾《みずから》がくっついてるのだから驚いた次の刹那にはその方へ回って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私がいった。
「それは理知の快味だ。驚いた刹那は争うべからざる驚きの意識で占領された刹那じゃないか。その意識こそ尊い意識だ」
「森鬱《しんうつ》として、巨人のごとき大きな山が現前したとき、吾人は慄然《りつぜん》として恐愕の念に打たれ、その底にはああ大なる力あるものよとの弱々しい声がある。しかしその声に応じて縋《すが》りつくものが欲しいではありませぬか」
「縋りたいという意識の生じ得ない刹那がいっそう高い。とにかく人間の現象のなかでは驚きということがいちばん高いなあ」
 私は口を緘してじっと考えた。明け放した障子の間から吹き込む夜風はまたしても蚊帳の裾《すそ》を翻した。突然柱時計が鳴り始めた。重い、鈍い音である。数は三つであった。
 今宵は形而上学的な友である。ランプの黄ばんだ光は室をぼんやり照らしている。
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