オて自分の感想が全体として型に入ってることを自覚しない。それだから毎年同じ感想が生ずるのである。放たれた、純な心で物象を感得することは容易なことではない。それには思索の練磨を要する。型を離れて純粋に事象を経験せんとする努力を思索というのである。囚《とら》われずに純粋に経験することは、思惟せずに偶然に物を感ずることではない。それはF・S君が「神の発見の過程」のなかに論じているように、思惟の凝視である。できるだけ注意して思惟することにほかならないのである。あなたなどは、思惟はものの真相を示すものではない、純なる感情で直感するのが真理であると思われるかもしれない。したがって思索家は囚われた物の感じ方をするものだ、知識に囚われてると思われるかもしれない。しかし思索せずにただ偶然に感情のままに事象を感受するならば、それはかえって型に篏《はま》って経験を受け取ることになるのである。かくて得られたる内容は真理でなくて常識である。私らが型を離れて純粋に自由に物象を感得するためには、思索せねばならないのである。あなたが思索を重んじられないために、あなたの思想は一般に型にはまっている。あなたの善の観念など
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