「。私の生命は全一ではないのだ。分裂してるのだ。知識と情意とは相背いてる。私の生命には裂罅《れっか》がある。生々《なまなま》とした割れ目がある。その傷口を眺めながらどうすることもできないのだ。この矛盾せる事実を一個の生命のなかに対立せしめてることがメタフィジカルな私にとって、どんなに切実な苦痛であったろう。
 私は実際苦悶した。私はどうして生きていいか解らなくなった。ただ腑の抜けた蛙のように茫然として生きてるばかりだった。私の内部動乱は私を学校などへ行かせなかった。私はぼんやりしてはよく郊外へ出た。そして足に任せてただむやみに歩いては帰った。それがいちばん生きやすい方法であった。もとより勉強も何もできなかった。
 ある日、私はあてなきさまよいの帰りを本屋に寄って、青黒い表紙の書物を一冊買ってきた。その著者の名は私には全く未知であったけれど、その著書の名は妙に私を惹きつける力があった。
 それは『善の研究』であった。私は何心なくその序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
 見よ!

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 個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのであ
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