章はその思索の成績において必ずしも非常にすぐれているとは言わないが、その文章の書かれた動機は、いずれの一つもその表出の理由と衝動とにみちていないものはない。そして一つのものから次のものへと推移する過程には必然的な体験の連結がある。その意味において真に霊魂の成長の記録である。人は初めのものより、終わりのものへと進むに従って、しだいにその思索と体験とが深められ、その考え方は多様にかつ質実となり、初めには裁いたものをも赦《ゆる》し、斥《しりぞ》けたものをも摂《と》り、曖昧《あいまい》なる内容は明確となり、しだいに深く、大きく、かつ高くなり、その終わりに近きものは、もはや「恵み」の意識の影の隠見するところにまで達せんとしつつあるのを見いだすであろう。その意味においては、人はむしろ自分をあまりに早く老いすぎるとなすかもしれないほどである。実際自分には壮年期と老年期と同時に来たような気がしている。それは必ずしも自分が緻密なる思索に堪え得ざる頭脳の粗笨《そほん》と溌剌たる体験を支え得ざる身体の病弱とのためではなく、じつに自分のごとき運命を享けたる者、早き死を予感せるものが、彼岸《ひがん》と調和との思慕に急ぐのは必然かつ当然なることである。その意味において自分は「恋を失うた者の歩む道」より以後のものは、壮年期以後の人に対しても読まるることを適当でないとは思わない。もとよりこの書には、ことにその初めの頃のものは稚《おさな》く、かつ若さに伴う衒気《げんき》と感傷とをかなりな程度まで含んでいる。しかしながら自分は自分の青春の思い出を保存するためにかなりの羞恥《しゅうち》を忍んでそれをそのままに残しておいた。それらの衒気と感傷とはそれが真摯にして本質的なる稟性《ひんせい》に裏付けられているときには青春の一つの愛すべき特色をつくるものである。実際自分はそれらのものを全く欠ける青年を、青年として愛することは困難を感ずる。またかなりに目障《めざわ》りな外国語の使用等も学生《シューレル》としての気分を保存するためにあえてそのままにしておいた。「生命の認識的努力」は幼稚であり、学術的には認識論の入門にすぎないけれども、その頃の自分にとってはじつに重要なものであり、この文章を書いた頃の尊い思い出を愛惜するためにどうしても割愛する気になれなかった。かつこの文章には一般の青年がその一生を哲学的思索に捧げない人といえども、必ず知っておかなければならない程度の、認識論の最も本質的に重要なる部分をことごとく含んでいるからである。そして自分が常に抱いている、中学の課程において、自然科学を教うる際に、認識論ことに唯心論的な認識論の入門をあわせて教えなければならないという意見の実施の代用として役立つことを信じるからである。実際自分は中学の誤まれる教授法によって授けられたる自然科学の知識の、実在の説明としての不当の――その正しき限界と範囲以上の――要求から解放せらるるまでに、どんなに不必要な、しかもじつに惨憺《さんたん》たる苦悩を経験したことだろう。自分はそのために青春の精力の半ば以上を費《ついや》したといってもいい。この事たる、ただ中学において、自然科学の教師が、その知識が実在の説明として、ある一つの考え方であって、唯一のものではなく、他に多くのそしてその中にはたとえば唯心論のごとく、全然反対の考え方もあることを付加するだけの用意を持っていさえしたならば、免るる、少なくとも半減することができたのである。そしておそらく私のみでなく、ほとんどすべての青年が同じ苦悩を経験するであろうと思わないではいられない。その意味において自分のこの稚き一文はかなりな効果ある役目を果たすであろうと思っている。またこの書にはかなりしばしば同一思想の反復あるいは前後矛盾せる文章を含んでいる。これはすなわち自分が同一の問題を繰り返し、くりかえし種々の立場より眺め、考え、究めんとせるためおよび思索と体験の進むに従って、前には否定したものをも摂《と》り容《い》れ、あるいは前に肯定したものをも、否定するに至ったためである。思想が必然的連絡を保って成長してゆく過程を痕《あと》づけるものとして、かかる反復と矛盾とは、避くべからざるものであるのみならずまたその思索と体験の真摯なることを証するものであると思う。
この書は青年としてまさに考うべき重要なる問題をことごとく含んでいるといってもいい。すなわち「善とは何ぞや」、「真理とは何ぞや」、「友情とは何ぞや」、「恋愛とは何ぞや」、「性欲とは何ぞや」、「信仰とは何ぞや」等の問題を、たといけっして解決し得てはいないまでも、これらに関する最も本質的な|考え方《デンケンスアルト》を示している。しこうして考え方はある意味において解決よりも重要なのである。一般に自分はこの書の学術的
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