擡《もた》げなかったならばと投げやりに思ってもみた。しかしこの思想は腐った肉に聚《あつま》る蠅のごとくに払えど払えど去らなかったのである。このとき私の頭のなかにショウペンハウエルの意志説が影のごとくさしてきた。

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 表われた世界は意志の鏡であり、写しである。この世界にあっては時間と空間という着物を着て万物は千差万別、個体として鬩《せめ》ぎ合ってる。しかし根拠の原理を離れた世界、すなわち本体界にあって、万物の至上の根源、物自爾としての実在は差別無く、個体としてでなき渾一体の意志である。この渾一体の意志は下は路上に生《お》うる一葉より、上は人間に至るまで、完全に現われている。たとえばその意志は幻燈の火のごときものである。ただ映画によって濃きも淡きも生じて白い帷《とばり》の上にさまざまの姿を映す。そのさまざまの姿こそ万物である。
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 これに次いで前述の認識、表象という文字が湧き起こる。主観を離れて客観はなく、客観を離れて主義はない。これに連接せしめて「表象なくば自己意識なし」ということを考えてみれば、どうも自己意識は絶対的には成立せぬらしい。唯我論は動揺せねばならない。いわゆる、利己、利他の行動は、本来この偉大なる渾一体としての意志の発現ではあるまいか。本体界の意志という故郷を思慕するこころは宗教の起源となり、愛他的衝動の萌芽となるのではあるまいか。これじつに遠深なる形而上学の問題である。
 何が人生において最もよきことぞと問い顧みるとき、官能を透してくる物質の快楽よりも、恋する女と、愛する友と相抱いて、胸をぴたりと融合して、至情と至情との熱烈なる共鳴を感ずるそのときである。魂と魂と相触れてさやかなる囁きを交すとき人生の最高の悦楽がある。かかるとき利己、利他という観念の湧起する暇は無いではないか。もしかかる観念に虐げられてその幸福を傷つけるならば、その人はみずからの気分によりてみずからを害《そこな》うものである。気分というものは人生において大なる権威をなすものだ。君は君の本性と正反対の気分をもって反動的にイリュウジョンを作り、それに悩まされているのではあるまいか。
 君は他人は自分の「財」として、すなわち自分の欲求を満足せしむる材料としてのみ自分にとって存在の理由があるという。しかし、ここが問題である。私は他人との接触そのものを大なる事実であり、目的であると考えたい。たとえば相愛する女と月白く花咲ける籬《まがき》に相擁して、無量の悦楽を感じたとする。このときの情緒そのものが大なる目的ではないか。この情緒の構成要素としては女の心の態度、用意、気分またはその背後に潜む至情が必要であるとともに君の心のこれらの者も同時に必要である。この際しいて女を手段と見るならば、君自身をも同様に手段と見ねばなるまい。君は自他の接触をばあまり抽象的に観察してはいまいか。愛らしい女がいるとする。これを性欲の対象として観るとき、そこに盲目的な、荒殺の相が伴う。これを哲学的雰囲気のなかに抱くとき、尊き感激は身に沁み渡って、彼女の長き睫《まつげ》よりこぼるる涙はわれらの膝を潤すであろう。虞美人草《ぐびじんそう》の甲野さんが糸子に対する上品な、優しい気持ちこそわれらの慕うところである。私は君との友情のみはあらゆる手段を超越せる尊厳なる目的そのものだとしか思えない。君よ! 哲学的に分離せんとしたわれらは再びここに哲学的に結合しようではないか。哲学の将来はなお遼遠である。ともに思索し、研究し、充実せる生を開拓しよう。この頃私は「生きんがため」という声を聞けば一生懸命になるんだ。耳を澄ませば滔々《とうとう》として寄せ来る唯物論の大潮の遠鳴りが聞こえる。われらは、pure experience と Vorstellung との城壁に拠ってこの自殺的真理の威嚇の前に人類の理想を擁護せねばならない。
 ああ愛する友よ、わが掌の温けきを離れて、蘆《あし》そよぐ枯野の寒きに飛び去らんとするわが椋鳥《むくどり》よ、おまえのか弱い翼に嵐は冷たかろう。おまえに去られて毎日泣いて待っている私のところへ、さあ早く帰ってお出で。
[#地から2字上げ](一九一二・二)
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 生命の認識的努力

       一

 われらは生きている。われらは内に省みてこの涙のこぼるるほど厳粛なる事実を直観する。宇宙の万物は皆その影をわれらの官能の中に織り、われらの生命の内部に潜める衝動はこれに能動的に働きかけて認識し、情感し、意欲する。かくて生命はおのれみずからの中に含蓄的(implicit)に潜める内容をしだいに分化発展してわれらの内部経験は日に日に複雑になってゆく。この複雑なる内部生命はおのれみずからの存在を完全ならしめ、かつ存在の意識を確
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