黷ホよい。そして何の犠牲をも払っていないならば愛していると思ってもじつは愛してはいないのである。カントが苦しんでなされた行為のみ善であるといったごとくに愛を証《あかし》するものはただ犠牲である。「私には人類的愛がある」これはしばしば聞く言葉である。けれどその人は本当に愛しているのか。私にはアイテルな感じがせざるを得ない。その人は自分の手近の周囲の個々の人に対しては何の犠牲も払わずに心のままに振舞うている。自分の欲しいものは何一つ捨てない。そして人類という空想物に向かって愛をささげる。その愛は単なる表象である。実在として現われてくる個々の人々は面倒くさがり軽蔑する。そして人類という仮象に向かって自己興奮の甘い涙をこぼす。その人類はいやらしい顔も、卑しき声も持たぬ仮象である、その愛は単なる心持ちでなんの犠牲をも要求しない。もし手近にいる醜い女や、うるさい田舎爺を愛することができないならば、その人の叫ぶ人類的愛は空しいものである。一つの優れたる芸術、哲学を創造して寄与するのも愛の一つの成就である。しかし一人の隣人を面倒を忍んでねんごろに世話してやることはさらに愛のすぐれた成就である。人間の純なる愛はむしろ後のものにおいてやさしく現われるのである。近代人はいかにして「主人」にならんかということばかり考えている。しかし愛はむしろ「僕《しもべ》」の徳においてその真実のはたらきを現わすのである。あのマリアがキリストの足に膏《あぶら》を塗り、髪の毛で拭き、それを接吻したときにキリストが深く感動したのはもっともに思われる。私たちは僕としての愛が先きにできねばならない。小説を書いてるときに施しを求めに来た乞食をうるさがって叱り飛ばすならば、その人の小説は人類的愛の名で書かれる価はない。多数の人を愛するために一人の人間をでも粗末に取り扱うてよい理由はけっしてない。近代人はじつにエゴイスチッシュで個々の人に対してはほとんど興味を感じていない。美しい女か尊敬している人かのきわめて少数にだけしか興味を感じない。そしてうるさがる。自分の必要なときだけ他人を求める。そして人類を愛すると叫ぶのである。たとえばここに一人の文士がいる。その人は何か書くために家族の面倒を避けて温泉に行く。温泉では多人数の百姓客などをうるさがって、静かな居心地のよき部屋を求める。そしてなるべく男の客とは交渉を避ける。そして宿の若い美しい女客や聘《へい》した芸妓とだけ話す。そしてそのような人でも文章を書くときには私の目には人類があると叫んで涙を浮かべることができる。けれどもその愛はじつに空しいものである。もとより私たちは人類を愛せねばならない。けれどキリストでも触れ合う人々しか愛することはできなかったのである。触れ合わない人は愛しないのではない。ただ触れ合うた人々を愛したのである。私たちは接触する個々の人々を愛しないならば何人をもじつは愛しないのである。愛という徳を自己のものとしたいならば、私たちは芸術品を作り出して与えるよりも先きに善きサマリア人のごとくに隣人に仕えることを学ぶべきである。百姓の爺や、自分の作をほめない男や、自分の興味を感じない人間を愛することを学ぶべきである。そのとき私たちは犠牲の味をしみじみと知るのである。また愛がついに祈りにならねばならない理由を知るのである。愛は自らを割きて人に与えることを求める。愛の十字架にはかぎりがない。それはじつにある場合には私たちの aesthetisch な要求をも捨てよと迫る。晴れやかな空を仰ぎたき願い、すぐれた書物を読みたき願い、をも捨てよと迫る。それ自身にはけっして悪しくない欲望をも隣人のためには捨てよと迫る。そのとき十字架は最も重い。ただ道徳的命令だけを除いて、すべての他のものは恋も、芸術も、科学も、ことごとく十字架の内容となり得るのである。ただ一人の隣人をでも徹底的に愛してみよ。その十字架はじつにかぎりがない。キリストは万人の個々のものに血を与えたのである。何もかも皆捨てたのである。「淋しきヨハンネス」の母親が、「この子の若いときには世のなかに貧しい人のいる間は学問などするものではないといって、何もかも売るといって困らせました」というのを読んで私は深く感動した。このような心持ちを一度も感じない人は愛の名によって芸術などに従う資格はないと思う。せめて愛の名によらず芸術に従うがよい。私が別府の温泉の三階の欄干にすがっていたとき、足下の往来を見ていたら、小さい女の子供が三人鼓を打って流して歩いた。私が気まぐれに、「あれを呼び入れて何かやらせましょう、慈善になるから」と言ったら、私の知人は「慈善になるからというのはよしてください。おもしろいからやらせましょう」と言った。私はそのとき穴へも入りたいほど羞《はず》かしかった。世の中には美
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