ー《アルト》に気がつくであろう。すなわち母子の愛と、男女の愛と、隣人の愛とが区別せられて感ぜられるようになるであろう。この差別の目に見ゆるようになるまでは愛のディレッタントである。いまだ愛を知ってるとはいえない。そしてこの区別の見ゆるようになるには人は多くは冷たい涙と苦い経験を味わうものである。愛の問題を真実に、自己の問題として生きる人は必ずこの区別が見ゆるようになるに違いない。そのときから後に真実の愛が生まれるのである。私は今は隣人の愛のみ真実の愛であると信じている。母子の愛と男女の愛とは愛と異なるのみならず、相そむくものである。それは愛ではなくてエゴイズムの系統に属するものである。多くの人はこれを混同している。そして自分のエゴイズムをジャスチファイし、わがままを振舞いながら、隣人の愛のみの受くべき冠にあずからんことを要求している。彼らは他人の運命を傷つけながら叫ぶであろう。私は愛している。善事をなしていると。けれども善《よ》き愛、天国の鍵となる愛はキリストが「汝の隣りを愛せよ」と言ったごとき、仏の衆生に対するがごとき隣人の愛のみである。真の愛は本能的愛のごとく甘きものではなくてそれは苦き犠牲である。母子の間、恋人の間に涙と感謝とのあるときは両者の間に隣人の愛の働いたときである。骨肉の愛と、恋愛とが本来の立場を純粋に保つならばそは闘争であり、煩悩《ぼんのう》である。生物と生物との共食いと同じ相である。二つの生命は自然力――それは悪魔のものである――に駆られて自らは何をなせるかも知らざるごとくに他の生命に働きかける。そしてその力の根原は自己を主張せんとする意志より発する、ショウペンハウエルのいわゆる「生きんとする意志」にその根を持つところの盲目的活動である。その作用の興味となるものは依然として自己の運命である。隣人の愛は自己犠牲、死なんとするねがい、ショウペンハウエルのいわゆる「意志なき認識」より発するところの自主活動であって、その作用の興味は他人の運命である。この区別を感知することは恋を失うて得たる私の唯一の知恵である。私はそれを明らかに感じ分けることができる。母親が幼児を撫育《ぶいく》するとき男性が女性を求むるときに働くものは本来愛ではない。男女、母子の間に愛が起こるのは両者が互いに接触し、共生することによって生ずるところの隣人の愛である。あたかも交渉なき二人の間よりも互いに撲《なぐ》り合った二人の間に隣人の愛の起こるごとくに、両者の切なる感情をもってしたる接触が愛を生んだのである。しかし、その隣人の愛は恋や骨肉の愛の本質ではない。男性は愛の動機からではなくとも、はげしく、盲目的に女性を恋することができる。そしてその占有の欲は恋人を殺さしむることさえある。それは戦いのありさまにさも似ている。それが恋の本来の相である。母親が幼児を抱き、撫《な》で、接吻するときにはほとんど肉体的興味からの動作に酷似している。処女が男性に対して持てるごとき肉的魅力を幼児は母親に対して供えている。そのとき母親の問題はほとんど幼児の運命ではなくて、自己の興味――いな自己もあずからざる自然力の興味である。ここに私の挙げたのは著しき例である。けれどもたしかに母子の愛と男女の恋との本来の相を語っている。愛は「生きんとする意志」がみずからを認識し嫌悪するところより起こる。恋人は恋のエゴイズムを、母は骨肉の愛のエゴイズムを自覚したるときより生ずる、自主的、犠牲的作用である。私は恋を失うて恋人へのエゴイズム恋人の母のエゴイズム(恋人に対する)とを痛切に感じて一生忘れることのできない肝銘を得た。そしてそのときから愛はキリストの「隣人の愛」、神の前に立って互いに隣りを愛する愛のほかにないことを感ずるようになった。私は女から「あなたを愛する」といわれるときは少しも愛されている気がしない。また母が私を撫でるように愛するとき私はかえって一種の Bosheit を感ずる。なんとなれば母が他人の子供に対する態度を見るときに、私の愛されてるのは偶然にすぎないと思うからである。女が愛する、というのは私の運命を愛するのではなく、私との接触を興味とすることを知るからである。私が恋に熱狂しているとき私は最もエゴイスチッシュであった。母や、友や、妹は私の恋のための材料にすぎなかった。そして私はつねに言っていた。「私は愛を生きている」「善をなしている」と。私はその間まことに悪い人間であった。今にして思えばそのとき私はその恋人一人をさえ真実に愛していたのではない。一つの自然力に奉仕していたのである。見よ、恋人の運命は傷つけられた。私の運命も傷ついた。そして、恋は亡びてしまったのではないか! 私は思う、愛とは他人の運命を自己の興味とすることである。他人の運命を傷つけることをおそれる心である。
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