スであろう。しかし、私にとっては、この短き演説のほとんど全面に懐疑と、不服と失望との種が横たわってるのである。その理由を私は今詳しく書いてあなたの生活を批評しようと思うのであるが、それにしてもあなたの住む世界と私の住む世界となんという大きな隔たりであろう。私はこうして筆を執りつつも、私の心持ちがあなたに理解してもらえるかどうかを心もとなく感ずるのである。
 Y君、あなたは心の目をもっと深く、鋭く、裸にして人生を眺める必要はありはせぬか。常識を捨てたまえ[#「常識を捨てたまえ」に傍点]! この語をあなたの耳朶《じだ》に早鐘のごとく響かせたい。これが私のあなたに与え得る最高最急の親切である。常識はあなた自身の知識ではない。あなたの本性に内化せられたる知識ではない。それはじつにあなたの所有物ではない。社会と歴史との所有物である。常識で導いてゆく生活は自分自身の生活ではない。独立自由の生活ではない。生活の主体は社会と歴史であって自己はただその傀儡《かいらい》にすぎない。常識の効果はただこれに則って生活すれば共同生活において安全に生命を維持することができるということに存する。安らかに生命を保つ。そんなことを青年が考えるときではない。この命題を前提とするすべての思想を私らは当分|放擲《ほうてき》しなければならない。なんとなれば私らはこれよりもいっそう根本的なる急務を持つからである。すなわち生命に対する態度[#「生命に対する態度」に傍点]を決めねばならぬからである。安らかであろうが、危険であろうが、私らはまず生命という事実に驚異し、疑惑し、この大事実の意味を深く考えてみなければならない。しかる後燃ゆるがごとき熱愛をもって生に執着するもいい。呪うほどの憎悪をもって生を擯斥《ひんせき》するもいい。安らかに生を保つ計を立てるもいい。静かな淵のような目で生を眺め暮らすもいい。あるいは引きずられるように日々を生きてゆくもいい。ただすべての生活は自分のものでなければならない。たとい、自己の生活が社会と歴史とに拡がりゆくにしても、それは自己の生活が社会と歴史とを取りいれたのでなければならない。いかなる場合においても、生命の最高指導者が常識であってはならない。まずいっさいの社会と歴史とより与えられたる価値意識を捨てよ。天と地と数かぎりなき生物の間に自己を置け。しこうして白紙のごとき心をもて生命の内部に湧き起こる自然の声に耳を傾け、外界の物象と事象とを如実に見よ、かくて感得したるおのれみずからの認識をもて生命の行く手を照らす人を自然児というならば、あなたは第一に自然児とならねばならない。
 こんなことはいまさら聞かされる必要はないとあなたは思われるかもしれない。けれども私はこんなことをまだあなたにいわねばならぬのを悲しく思うのである。あなたはけっして Naturkind ではない。
 たとえばあなたの善という観念は著しく既定的なものである。あなたの頭のなかにはおそらくは酒を飲むこと、勉強せぬこと、……応援に行かぬこと、……等は悪い、禁酒すること、旗を振ること、勉強すること、規則を守ること……等は善いというふうに、ぽつりぽつりと固形体のような概念が横たわってるのであろうと思う。けれども、そういう考え方はけっして正当なものではない。酒を飲むことがいいこともあれば旗を振ることが悪いこともある。個々の特殊の事情を見なければ解るものではない。何々するのは悪い、何々するのはいいというように大まかに概括的にいえるものではない。あなたの持ってる善の観念は大部分が常識であるかのように私には思われる。たとえば団体の存在を認めぬような思想を排斥する前にあなたは少しでも躊躇するであろうか。その思想とその持主の内生活との間に存する特殊の事情を顧みる暇を持ってるであろうか。
 私は本校に来ても、あなたのようにみずから善良なる校風に感化せられたというような点を持っていない。また酒も飲むようになったし、あなたから見ればどうかと思われるような所へも平気で行くようになった。それならば私は堕落したのであろうか。あなたの演説のままを当て篏めれば私などはこの頃学校にはびこることをあなたの憂うる悪人であるかもしれない。しかし私はけっして中学校のときより堕落したと思うことはできない。いな、私は真面目になったと思ってる。生命に忠実になったと信じてる。酒を飲むようになったから真面目になったというのではない。それにもかかわらず、真面目になったというのである。酒を飲むとか、飲まぬとかいうようなことは私にはむしろどうでもいいことである。もっと大きな、深い根本的な点において私は真面目になったと信じるのである。
 私は学校にはびこるのは私のような人ではなく、むしろあなたのような人だと思う。そしてそれを生命真実の発展の
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