く囲っていた。
「……飯食い地蔵に捧げるといって、世間の眼を眩ませ、こっそり私が持って行く食物を食べ、蔵の中で、生甲斐もなく生きている、あの化物のような旦那様より、まだまだわたしの方がどんなにか人間らしいじゃアありませんか。そう嫌わずに、わたしの云うとおりに。……あんまり強情お張りなさると、わたしは世間へ、納谷家の主人雄之進様が、長旅へ出たとは偽り、実は業病になり、蔵の中に隠れ住んでおりますと云いふらしますぞ。するとどうなります、数百年伝わった旧家も、一ぺん[#「ぺん」に傍点]に血筋の悪い家ということになって、世間から爪はじきされるじゃアございませんか」
 こういう光景を見ているものは、ささやかな家根の下、三方板囲いされた中に、赤い涎れ懸けをかけ、杖を持った、等身大の石地蔵、飯食い地蔵尊ばかりであり、それを照らしているものは、その地蔵尊にささげられてある、お燈明の光ばかりであった。
「痛! 畜生! 指を噛んだな!」と突然嘉十郎は咆哮した。
「ええこうなりゃア、いっそ気を失わせておいて!」と大きな手を、お篠の咽喉へかけた。
「わッ」
 瞬間、嘉十郎はお篠を放し、両手を宙へ延ばした。咽喉に匕首が突立っている。
「う、う、う、う!」
 のめっ[#「のめっ」に傍点]て、地蔵尊へ縋りついた。飯食い地蔵は仆れ、根元から首を折ったが、胴体では、嘉十郎を地へ抑え付けていた。
 お篠はベタベタと地べた[#「べた」に傍点]へ坐った。
(助かった! 助かった!)
 その時、祠の陰から、お篠の代首を、今は口には銜えず、可憐《いとお》しそうに両袖に抱いた、仮面のような獅子顔の男が妖怪《もののけ》のように現われ、お篠の横へ立った。
「雄之進殿オーッ」
 それと見てとったお篠は、縋り付こうとした。
 しかし、納谷雄之進は、自分の悪疾を、愛する妻へ移すまいとしてか、そろりと外して、じっとお篠を見下ろした。盲いかけている眼から流れる涙! 血涙であった!
「旦那様アーッ」
 なおお篠は、雄之進の足へ縋り付こうとした。
 しかしもうその時には、――蔵の中に隠れ住むことにさえ責任《せめ》を感じ、家の名誉と、愛する妻の幸福のために、今度こそ本当に、帰らぬ旅へ出て行こうと決心し、愛し愛し愛し抜いている妻の、俤を備えている代首、それだけを持った雄之進は、竹藪を分けて歩み出していた。
「妾もご一緒に! 雄之進殿オーッ」とお篠は後を追った。竹の根につまずいて転んだ。起き上って後を追った。またつまずいて仆れた。起き上って後を追った。いつか竹藪の外へ出た。茫々と蒼い月光ばかりが、眼路の限りに漲ってい、すぐ眼の前に、鸚鵡蔵が、白と黒との裾模様を着て立っていたが、雄之進の姿は見えなかった。絶望と悲哀とでお篠は地へ仆れた。そこで又愛し憐れみ尊敬している良人《おっと》の名を、声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
 声は鸚鵡蔵へ届いた。
 鸚鵡蔵は、「雄之進殿オーッ」と木精《こだま》を返したか? いや、鸚鵡蔵は沈黙していた。
 しかしどこからともなく、哀切な、優しい声が、
「お篠オーッ」と呼び返すのが聞こえた。
「あ、あ、あ!」とお篠は喘いだ。
「ご病気でお声さえ出なくなった旦那様が、妾の名を、妾の名を、お篠オーッと……」
 嬉しさ! 恋しさ! お篠は又も声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」

 手燭の燈も消えた暗い蔵の中では、菊弥が恐怖で足も立たず、床を這い廻っていた。と、戸外から聞き覚えのある姉の声で、人を呼んでいるのが聞こえた。菊弥は嬉しさに声限り、
「お篠お姉様アーッ」と呼んだ。
 壁を切り抜かれて、鸚鵡蔵の機能を失った蔵は、お篠の呼び声に答えはしなかったが、そう呼んだ菊弥の声を、切り抜かれた穴から戸外《そと》へは伝えた。しかし菊弥は心身ともに弱り切っていたので、語尾の「お姉様アーッ」というのが切れ、戸外へは――お篠の耳へは、
「お篠オーッ」としか聞こえなかった。
 しかしお篠には、その声が、蔵の中で菊弥が呼んでいる声などとは思われなかった。良人が呼び返す声だと思った。
 幾度も幾度も呼んで、そのつど答える良人《おっと》の声に耳を澄ました。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」
 竹藪の中では、首を折って、飯食い地蔵の名に背くようになった石の地蔵尊が、嘉十郎の死骸を、なおその胴体で抑えていた。

 その後の納谷家には、明るい生活がつづいた。先ず菊弥は女として育てられることになり、鸚鵡蔵と飯食い地蔵とは、その名に背くようになったところから、二つながら取り毀《こぼ》され、代首も真の秘密とその効用とが他人に知られた以上――知った綱五郎は殺されたにしても――保存する必要がないというので、これも取り捨られ、甲州大判は尋常の金箱の中に秘蔵されることになった。つまり、古い伝統を持っ
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