った。
 すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
 鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
 月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
 と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら[#「がら」に傍点]空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
 竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
 鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
 と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
 だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
 屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
 と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
 そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
 と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
 すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」

     五

「幽霊船だって? 何んの事だ?」
 こう呟いたのは正雪であった。
 彼は此時|厩《うまや》の背後、竹藪の中に隠れていた。
 で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
 いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火《たいまつ》で無い。得体の知れない火であった。
 どうやら帆柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
 天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船《いくさぶね》であった。二本の帆柱、船首《へさき》の戦楼《やぐら》矢狭間が諸所に設けられている。
 そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船
前へ 次へ
全12ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング