が咲いて散って空に飜えり、旗亭や茶館や画舫などへ、鵞毛のように降りかかる季節、四五月の季節が来ようものなら、わけても日本がなつかしくなるよ。
楊柳の花! 楊柳の花!
友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!
詩人李白が詠《うた》ったっけ。――
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楊花落尽子規啼《ようかおちつくしてしきなく》。
聞道竜標過五渓《きくならくりゅうひょうごけいをすぐと》。
我寄愁心与明月《われしゅうしんをよせてめいげつにあたう》。
随風直到夜郎西《かぜにしたがってただちにやろうのにしにいたる》。
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詩人王維も詠ったっけ。――
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花外江頭坐不帰《かがいこうとうざしてかえらず》。
水晶宮殿転霏微《すいしょうきゅうでんうたたひび》。
桃花細逐楊花落《とうかこまかにようかをおっておつ》。
黄鳥時兼白鳥飛《こうちょうときにははくちょうをかねてとぶ》。
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が、今は楊柳の花が、僕の心を感傷的にする、そういう季節ではないのだよ。しかし僕の語ろうとする「鴉片を喫む美少年」の物語の、主人公の美少年と逢ったのは、その今年の楊柳の花が、咲き揃っている季節だった。
その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。
その家は外観《みかけ》は薬種屋なのだ。
しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟の俤《おもかげ》が、眼前に展開されるのさ。
闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。
僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。
度々来て鴉片を喫《の》む僕にとっては、悪臭と煙と人いきれ[#「いきれ」に傍点]と暗い火影と濁った空気と、幽鬼じみて見える鴉片常用者と、不潔な寝台と淫蕩な枕と、青い焔を立てている、煙燈《エント》の火がむしろ懐かしく、微笑をさえもするのだが、そうでない君のような人間が、突然こんな部屋へやって来たら、その陰惨とし
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