あきない》とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」
 老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我|卜居《ぼっきょ》す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の住居《すまい》は雲州の庭だ」
 老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
 腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて了《しま》やアがった。全体どういう爺《おじい》だろう? 謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭? 雲州の庭? どうも見当がつかねえなあ。……」
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に茫然《ぼんやり》しているじゃアないか」
 背後《うしろ》で優しく呼ぶ声がした。
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
 こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
 お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した女形《おやま》のようだ。
 笠森お仙、公孫樹《いちょうのき》のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている一葉《いちは》茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。
 同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは仲宜《なかよ》しであった。
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「妾《わたし》も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。養母《おっか》さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨までしゃぶろう[#「しゃぶろう」に傍点]っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」
「お養母《かあ》さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
 お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
 ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
 日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
 と、鬼小僧は突然云った。
「解《わか》った! 箆棒《べらぼう》! 何のことだ!」



「解った! 箆棒! 何のことだ!」
 こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。
 浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。尾張《おわり》殿、肥後《ひご》殿、仙台殿、一ッ橋殿、脇坂殿、大頭《おおあたま》ばかりが並んでいた。その裏門が海に向いた、わけても宏壮な一宇の屋敷の外廻りの土塀まで来た時であった。その土塀へ手を掛けると、鬼小僧はヒラリと飛び上った。土塀の頂上《てっぺん》で腹這いになり、家内《やうち》の様子を窺ったが、樹木森々たる奥庭には、燈籠の燈《ひ》がともっているばかり、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。
「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の態《さま》、そうかと思うと谷川が流れ、向うに石橋こちらに丸木橋、更にある所には亭《ちん》があり、寂と豪華、自然と人工、それの極致を尽くした所の庭園は眼前に展開されていたが、これぞと狙いを付けて来た、目的の物はみえなかった。
「おかしいなあ?」と呟《つぶや》いたが、鬼小僧は失望しなかった。そろそろと爪先で歩き出した。と一棟の茶室《みずや》があった。その前を通って先へと進んだ。
「これ小僧」と呼ぶ声がした。
「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」
 茶室の中から聞こえてきた。
 鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも周章《あわて》はしなかった。足を払うと縁へ上った。と、雨戸が内から開いた。そこで鬼小僧は身を細め、障子をあけて中へ入った。しかし老人は居なかった。
「はてな?」と小首を傾げた時、正面
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